カテゴリ: 歴史

19世紀フランスの社会思想について学ぶなら「サン=シモン主義」を避けて通るわけにはいかない。社会主義、科学主義、実証主義、経済学など、世紀後半に花開く多くの思想をサン=シモン主義が胚胎したからである。

サン=シモン(本名クロード=アンリ・ド・ルヴロワ)が1825年に死ぬと、弟子たちはサン=シモンの思想の体系化および布教につとめた。サン=シモンの死の直前、最後の秘書となったユダヤ人銀行家のオランド・ロドリグが活動の中核を担った。

そうした中、頭角を現すのがバルテルミ=プロスペル・アンファンタンである。アンファンタンは1796年2月、パリの裕福な銀行家の子として生を受けた。理系の名門校であるエコール・ポリテクニクに進学したが、在学中に父を失い、授業料の納入困難から退学、ヨーロッパ各地を転々とし、実業家への道を歩み始める。

アンファンタンがサン=シモンの著作に触れたのはこのときである。アンファンタンはサン=シモンの弟子たちが結成した教団に入り、「至高の父」としてサンタマン・バザールとともに二頭体制で教団を指導する。

ところがサン=シモンの教義の解釈をめぐり両者は対立する。女性解放をとなえるアンファンタンによる自由恋愛の主張を、バザールは受け入れられなかった。バザールは私生児だった。結局バザールは教団を脱退し、アンファンタンは唯一の「至高の父」となる。アンファンタンの指導の下で教団は独特な制服を採用し、パリ郊外のメニルモンタンで隠遁生活を送った。

警察は彼らの不審な行動を見逃さなかった。アンファンタンは風紀紊乱の罪で起訴され、サント・ペラジ獄に収監された。

数カ月の後に出獄を許されると、アンファンタンは東方へ向けて出港する。「至高の父」であった彼は、東西両洋の融和のためにオリエントへ「母」を探しに行ったのである。

結局この活動は失敗に終わる。帰国したアンファンタンは鉄道事業に身を捧げた。パリからリヨンを経由して地中海へ通じ、現在ではTGVも走るPLM線は、アンファンタンの経営により七月王政下で実現したものである。

アンファンタンは1864年に没した。彼の名は実業家や技術者としてより、宗教者や狂信家として後世に記憶されることになった。確かにアンファンタンの思想にカルト的な要素を見出すことはできる。しかしながら、そうした宗教熱が鉄道をはじめとする19世紀フランスの土木事業や、オリエント地域における植民地建設を支えたこともまた事実なのである。

なお、アンファンタンの墓はパリ郊外のペール・ラシェーズ墓地に所在する。すぐ近くにサン=シモンの墓もあるので、興味のある読者は観光コースに組み入れてみてはいかがだろうか?

 

核兵器は第二次大戦末期に開発され、冷戦中を通して世界中を恐怖に陥れた。その様子は『映像の世紀』第8集「恐怖の中の平和」に詳しい。

そんな冷戦中の核実験を視覚化したタイムラプス動画が2003年に公開され、大きな話題を集めた。日本人アーティストの橋本公氏によるものだ。



いかがだっただろうか。15分近くの動画にもかかわらず人を引き付ける力があり、思わず最後まで見てしまったという読者も多いはずだ。

動画では、史上初の原子爆弾である米国アラモゴードにおける核実験から、日本に落とされた2発の原爆、そして冷戦中に各国がしのぎを削った大量の核実験が、連続する無機質な点滅と機械音によって表現されている。

動画の作者である橋本公氏は1959年、熊本県生れ。明治大学商学部を卒業後、銀行員として17年間勤務。2001年に武蔵野美術大学に入学し、卒業設計としてこの作品を手がけた。 2001年に米国で発生した同時多発テロ、そして内戦終了後間もないカンボジアへ旅行した経験が、橋本氏にこの作品の着想を与えたという。

動画は公開後、大きな反響を呼んだ。言葉を使わずに表現されたこの作品は、世界中の人びとの心に訴えかけたのである。国や時代を超えた普遍的な価値をもつこの動画、ぜひ多くの人に知っていただきたい作品である。

 

これから卒論を各大学4年生にとって、まず最初の難関はテーマ選びだろう。多くの大学では、まず各種研究入門を使ってテーマを探すよう指導される。確かに研究入門には最新の研究動向が分かりやすくまとめられているが、それだけで簡単にテーマが見つけられる学生は少ないだろう。

そこでヒントになるのが過去の卒論題目である。これを参照することで、自分の興味に近いテーマが歴史学の研究対象になり得るのか判断することが出来る。

大学によってはホームページ上で過去の卒論題目一覧を公開しているところもある。以下では代表的な大学の文学部西洋史学科の卒論テーマ一覧を掲載したwebサイトを紹介する。テーマ選びの参考になれば幸いである。

国公立大学

・東京大学(文学部歴史文化学科西洋史学専修)
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/seiyoshi/students/bachelor.html 

・京都大学(文学部歴史文化学専攻西洋史学専修)
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/european_history/eh-title/#卒業論文 

・大阪大学(文学部西洋史学研究室)
http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/education-5.html

・九州大学(文学部西洋史学研究室)
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~his_west/thesis.html

・神戸大学(文学部西洋史学専修)
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/seiyoshi/student.html

・信州大学(人文学部人文学科歴史学コース西洋史分野)
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/arts/course/we-history/2011/08/43928.html
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/arts/course/we-history/2007/11/24484.html

・広島大学(文学部歴史学コース西洋史学研究室)
http://home.hiroshima-u.ac.jp/~westhis/qhmpro/index.php?%E5%8D%92%E6%A5%AD%E8%AB%96%E6%96%87%E9%A1%8C%E7%9B%AE

・岡山大学(文学部西洋史学研究室)
http://www.okayama-u.ac.jp/user/seiyoshi/program.html#学部教育 

・京都府立大学(文学部歴史学科)
http://www2.kpu.ac.jp/letters/hist_studies/gra_thes.htm

・大阪教育大学(教養学科西洋史研究室)
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~shakai/seiyosi/mokuroku.htm

・福岡教育大学(西洋史研究室)
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~tamaki/joyama/joyama.htm

私立大学

・早稲田大学(文学部西洋史コース)
http://www.waseda.jp/bun-seiyousi/bachelor.html 

・中央大学(文学部西洋史学専攻)
http://www2.chuo-u.ac.jp/seiyoshi/sotsuron2.html

・日本大学(日本大学文理学部史学科、土屋好古研究室)
http://www.chs.nihon-u.ac.jp/hist_dpt/YTHP/past_sotsuron.html

・立命館大学(文学部西洋史学専攻)
http://seiyoshi.wordpress.com/curriculum/undergraduate/thesis/

・奈良大学(文学部史学科)
http://www.nara-u.ac.jp/hist/s20/s20-03/s20-03-01.html

「ソシアビリテ」という用語は二宮宏之の手によって日本の歴史学界で知名度を得た。しかしこの言葉を歴史学に導入した近代史家モーリス・アギュロンのことは、わが国ではフランス史の専門家を除くとあまり知られていない。

モーリス・アギュロンは1926年12月20日、南仏ガール県に生まれた。1946年にリヨンの高校を卒業し、パリの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)へ入学。1950年に高等教員資格(アグレガシオン)を取得した。

同時にアギュロンはフランス共産党に入党し、政治活動に没頭する。マルクス主義者としてエルネスト・ラブルース教授の指導下で研究をつづけ、第二共和政下の南仏における社会運動について論文を発表した。

アギュロンの博論は1966年、「南仏的なる社会的結合関係(La Sociabilité méridionale)」という表題で出版された。人間同士が結びあう社交関係のあり方を意味する「ソシアビリテ(社会的結合関係)」という概念を歴史学に導入した記念碑的なこの論文で、アギュロンはアンシャン・レジーム下の南仏における悔悛苦行兄弟団とフリーメイソンという代表的なアソシアシオン(自発的社交結社)の活動を検討した。

1969年にはパリ大学ソルボンヌ校より国家博士号を取得。これによりマルセイユにあるプロヴァンス大学教授となった。72年にはパリ大学パンテオン=ソルボンヌ校教授、86年にはフランス知識人界の最高権威の一つであるコレージュ・ド・フランスの教授となった。

この間、アギュロンは政治文化史に接近する。フランス共和国の象徴「マリアンヌ」の表象をテーマに、『闘うマリアンヌ:1789~1880』(1979年)、『権力を握ったマリアンヌ:1880~1914』(1989年)、『マリアンヌの変容:1914~現代』の通称「マリアンヌ三部作」を上梓したのである。これをもってアギュロンは「アナール学派」のメンバーに位置づけられることもある。

アギュロンが生涯の最後に取り組んだテーマはシャルル・ド・ゴールである。アギュロンはよき共産主義者である前によき共和主義者であり、また愛国者だった。2014年5月28日死去。時代とともに生きた歴史家だった。アギュロンの遺したテーマは今もなおアクチュアルであり続けているのだ。

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「吉岡・堀米論争」と呼ばれる論争がある。歴史を学ぶことは役に立つのかをテーマとした昭和期の西洋史学の一大論争として現在まで語り継がれる論争である。

「役に立つ」そう主張したのは吉岡昭彦(1927~2001年)。専門は近代イギリス史、とりわけ経済史を専門とした。

吉岡は大塚久雄の比較経済史学の正統な後継者である。大塚久雄は二次大戦に敗れた日本社会の近代化の遅れを問題とし、理想的な人間類型たる「近代人のエートス」の実現を主張した。

高度成長を経て「もはや戦後ではない」とされた状況のなか、大塚史学は次第にアクチュアリティを失っていった。大塚の後継者たる吉岡は、近代社会の構造へと分析対象をシフトすることで、今なお歴史学は社会の役に立つことを示そうとした。吉岡は、歴史家はすべからく近代史を研究すべきであり、古代・中世の研究者は各1名ずつで十分だとまで主張した。

他方で、「役に立つ必要はない」と主張したのが堀米庸三(1913~1975年)である。専門は中世史。 『史学雑誌』の「回顧と展望」に掲載された「西洋史・総説」(『史学雑誌』69-5、1960年)において、堀米は自らの感性にもとづいて歴史を総合的に把握することを主張した。旧制高校の教養主義を体現する存在であった堀米にとって、歴史学は人文的な個性記述の学であり、社会の役に立つ前に個人的な人間形成の手段であった。

こうした堀米のヒューマニズムに違和感を表明したのが吉岡である。講座派マルクス主義者だった吉岡にとって、人間はいかに生きるべきかという問いは社会科学的思考なしには考えられなかった(吉岡昭彦「日本における西洋史研究について」『歴史評論』121、1960年)。

60年代に交わされた論争からすでに半世紀が経過した。だが、二人の問題意識は現在も新鮮さを失っていない。「吉岡・堀米論争」の詳細については近藤和彦『文明の表象 英国』や小田中直樹『歴史学のアポリア』に詳しい。あわせて参照されたい。

「大学に入ったので専門的な歴史の勉強を始めたい!」「昔勉強した歴史をもう一度復習したい!」そんなニーズは多いはず。ですが、書店に行くと大量の本に囲まれてどれから読めばいいか分からない…そんな声に答えて本稿では定評ある西洋史の教科書を4つ厳選して紹介します。意欲ある読者の皆様のお役にたてば幸いです。

近藤和彦編『西洋世界の歴史』山川出版社、1999年

【版元による解説】歴史が大きく転換した今,気鋭の研究者が分担執筆により古代から現在まで,世界を視野に入れて,その歴史像を鮮やかに描き出す。



服部良久、山辺規子、南川高志編著『大学で学ぶ西洋史:古代・中世』ミネルヴァ書房、2006年
小山哲、山田史郎、杉本淑彦、上垣豊『大学で学ぶ西洋史:近現代』ミネルヴァ書房、2011年

【版元による解説】日本の西洋史学界の中核を担う世代の執筆陣が、最新の研究成果を踏まえて西洋の古代と中世の歴史を平易に解説する。



山本茂 、早川良弥、鈴木利章、藤縄謙三、野口洋二編『西洋の歴史:古代・中世編』ミネルヴァ書房、1988年
大下 尚一、服部 春彦、西川 正雄、望田 幸男編『西洋の歴史:近現代編』ミネルヴァ書房、1988年

【版元による解説】各節に「歴史の探究」欄を設け、より深い関心が育まれる構成にした。幅広い読者層への好個のテキスト。



中井義明、佐藤専次、渋谷聡、加藤克夫、小澤卓也編『教養のための西洋史入門』ミネルヴァ書房、2007年

【版元による解説】古代ギリシアから9・11同時多発テロまで、西洋史をこれから学ぶ人、教養を身につけたい人に平易に解説する。
 

今年、2014年は第一次世界大戦開戦から100周年をむかえる。これを記念して歴史研究者による専門書の出版が盛んになっており、書店には関連書籍が所狭しと並んでいる。本記事ではそうした中から今後も基本文献として参照され続けるであろう、日本人研究者による著作を4点ご紹介する。読者の本選びの参考になれば幸いである。

池田嘉郎編『第一次世界大戦と帝国の遺産』山川出版社、2014年。

第一次世界大戦の開始から100年。二度の世界大戦と冷戦を体験したわれわれは今も混迷のさなかにある。20世紀初頭の諸帝国が残したものは何か。国民国家の枠を超えて考える。(出版社webサイトより)

木村靖二『第一次世界大戦』筑摩書房、2014年。

一九一四年に勃発したバルカン戦争は、当初の誰もが予想しなかった経緯をたどり、ヨーロッパ戦争へ、そして世界大戦へと拡大する。「短い二〇世紀」のはじまりであり現代史の画期となる第一次世界大戦である。本書では、近年の研究を踏まえながら、その戦史的経過、技術的進展、社会的変遷を辿り、国際体制の変化、「帝国」から「国民国家」への移行、女性の社会進出、福祉国家化などをもたらしたこの出来事を考察する。(出版社webサイトより)

シリーズ「現代の起点 第一次世界大戦」岩波書店、2014年。

第一次世界大戦は,世界の一体化を推し進め,社会のすべてを動員しようとし,人びとの精神のありようを根底から変えてしまった,史上初の「世界戦争」だった.勃発から一〇〇年──現代の幕開けを告げる出来事としての第一次世界大戦を「世界性」「総体性」「感性」「持続性」という四つの新たな視点から問い直す,日本初の本格的論集.(出版社webサイトより)

シリーズ「レクチャー 第一次世界大戦を考える」人文書院、2010年~




 

フランス人技術者ダゲールによるダゲレオタイプの発明以後、写真は歴史の様々な場面を証言してきた。そんな歴史的な写真を集めたTwitterアカウントに「ClassicPics (@History_Pics)」がある。写真はどれも目を引くものばかりで、歴史ファンならきっと楽しめるだろう。中には撮影された背景など色々なことを想像させるものもある。以下に最近の投稿をいくつかピックアップしてみた。写真が気に入った読者はフォローしてみてはいかがだろうか。

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エッフェル塔を塗装する労働者

出廷したアル・カポネ

1878年のウォール街

ダリとシャネル

タイタニック号の大階段 
 
1920年代のトレーニングマシン

MGMロゴの撮影風景

クリーヴランドの風船祭り

6月21日(土)より映画『超高速!参勤交代』が公開された。幕府から5日以内に江戸へ参勤せよという無理難題を押し付けられた弱小の湯長谷藩(現在の福島県いわき市)が、藩主を含めたった7人で挑むというストーリー。映画の主題となっている「参勤交代」は小学生でも知っている江戸時代の制度だが、内容について詳しく説明できる人は少ないだろう。参勤交代とは一体どのような制度だったのだろうか?

概要

参勤交代は1635年、3代将軍・徳川家光の時代に制度化された。藩主に対し1年おきに地元と江戸を行き来させる制度で、妻子は江戸に住まわせた。毎年多数の武士が地方と江戸を往来したため、それにあわせて東海道などの五街道が整備され、道中の宿場町が発展するなど、経済振興の要因ともなった。

目的

参勤交代の目的は、諸藩に予算と人員を割かせて勢力を削減し、幕府に対抗できないようにするため…というのが一般的な理解である。しかしながら、この一般常識は歴史家の間では疑問視されている。東京大学の入試問題を見てみよう。
参勤交代が、大名の財政に大きな負担となり、その軍事力を低下させる役割を果したこと、反面、都市や交通が発展する一因となったことは、しばしば指摘されるところである。しかし、これは、参勤交代の制度がもたらした結果であって、この制度が設けられた理由とは考えられない。どうして幕府は、この制度を設けたのか。戦国末期以来の政治や社会の動きを念頭において、150字(句読点も1字に数える)以内で説明せよ。 (1983年第3問)
藩財政の削減は参勤交代の結果であって、目的ではない、そう問うている。確かに、ただ単に藩の勢力を削ぎたいだけなら他にいくらでもやり方はあったはずである。では、一体なぜ幕府は参勤交代の制度を設けたのだろうか?

ここでヒントとなるのが問題文中の「戦国末期以来の政治や社会の動きを念頭において」という部分である。戦国大名は家臣との結束を強める目的で、家臣を城下町へ集住させた。これにより大名は支配を安定させ、領国の一円的な支配を行うようになった。

こうした武士の主従関係において、軍役により命を捧げることは主君に対する奉公と考えられた。その引き換えとして家臣は主君から恩賞をもらうのである。ところが江戸時代になると平和が訪れ、軍役奉仕による奉公の機会が消滅した。そこで軍事奉仕の代わりに制度化されたのが参勤交代だ。武器を携帯した武士団を引き連れて参勤する様はさながら軍事パレードのよう。参勤交代は平和な時代において、幕府と大名との主従関係を確認する役割を果たしたのである。

ところが、映画の中で幕府は小藩に対し無理難題を押し付ける。これでは忠誠など望むべくもない。これに対して藩主の内藤政醇(演・佐々木蔵之介)はどう応じるのか。映画『超高速!参勤交代』は全国の劇場で上映中。

 

カタールで開催中の国連教育科学文化機関(UNESCO)は21日、かねてより日本が申請していた富岡製糸場の世界遺産登録を決定した。富岡製糸場は群馬県にある国内初の官営器械製糸工場。明治維新期の殖産興業を牽引した。

開国後の日本には国際競争力のある産業がほとんど存在せず、比較優位を持つ欧米製品の流入を許すままになっていた。そうした中、日本にとって最大の輸出品は生糸であった。原料や生産手段を国内で調達できたため、当時の工業水準でも高品質の製品を産出することができたのである。かくして生糸は日本にとって重要な外貨獲得手段となった。

富岡をはじめとする信州の製糸工場に雇用され、日本の産業革命を現場で支えたのは農家の若い女性たちだった。彼女たちは時に重労働を強いられ、苦しい生活を余儀なくされた。そうした工女の悲哀は同時代のルポルタージュである『女工哀史』およびそれを下敷きにした『あゝ野麦峠』に詳しい。

このように暗い側面をも有した維新期の殖産興業政策であったが、結果的に日本は産業革命を達成し、非欧米圏で唯一、列強の一員に加わることに成功した。そうした歴史的経緯は、今からちょうど30年前の東大入試でも取り上げられている。
長野県諏訪地方では製糸業の発達が日覚ましく,明治後期になると,県外からも多数の工女が集められるようになった。これら工女たちによってうたわれた「工女節」に,「男軍人 女は工女 糸をひくのも国のため」という一節がある。どうして「糸をひく」ことが「国のため」と考えられたのであろうか。明治後期における日本の諸産業のあり方を念頭において,150字以内で説明せよ。(1984年、第4問) 
解答は載せないが、富岡製糸場が世界遺産に認定されたこの機会に、問題を解きながら近代日本の歴史に思いを馳せててみてはいかがだろうか。

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