戦前よりパリで活躍した日本人画家・藤田嗣治の生涯を描いた日仏合作映画「FOUJITA」が、オダギリジョー主演で2015年秋に公開されることが分かった。

映画は小栗康平監督がメガホンを取り、あの『アメリ』を手掛けたプロデューサーであるクロディ・オサール(Claudie Ossard)が担当する。

主演のオダギリジョーは、本格的な欧州進出は今回が初。撮影に向けて6月からフランス語の特訓を行っているという。



本作の主人公である藤田嗣治(ふじた つぐはる) は1886年、東京市牛込区に生まれた。1905年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学した後、1913年に渡仏。パリはセーヌ左岸のモンパルナスに居を構えた。

当時のモンパルナスにはピカソ、モディリアーニ、ザッキンやアンリ・ルソーなど、当代一流の画家・芸術家が集まっていた。その活気あふれる様子は映画『ミッドナイト・イン・パリ』からうかがい知ることができる。 

藤田はパリでフランス語風の綴り「Foujita」と名乗った。「Fujita」だと「フュジタ」の発音になってしまうからである。藤田は「FouFou」(「お馬鹿さん」の意)という愛称でパリの仲間に親しまれた。

藤田は「エコール・ド・パリ」の面々と交流を続けながら独自の画風を追求し、 乳白色の肌を特徴とするスタイルは世界中から絶賛された。

戦火の中で30年年代に帰国するも、再び渡仏、59年にはフランス国籍を取得し、 「レオナール・フジタ」と名乗った。1968年、スイス・チューリヒにて没。 

若くして海外に渡った藤田、19歳で米国に留学したオダギリも親近感をもったという。実力派俳優は丸メガネにおかっぱ頭の藤田をどう演じるのか。映画「FOUJITA」は2015年秋公開の予定である。

 

一橋大学で出題される世界史の入試問題は、東大をも凌ぐほどの難易度として関係者の間で有名である。そんな一橋大で2013年、こんな問題が出題された。
第2問

 次の文章を読んで、下線部に関する問いに答えなさい。

 フランスの歴史家アルベール・マチエはその著書『フランス大革命』の第一巻を「君主制の瓦解(1787年-1792年)」とし、その第二章を「貴族の反乱」とした。王室財政の破産がこのままでは不可避とみた国王政府は、貴族への課税を中心とする改革案を作り、主として大貴族からなる「名士会」を1787年に召集して改革案の承認を求めたが、「名士会」は、貴族が課税されることよりも、むしろこのように臨時にしか貴族が国政に発言できない政治体制そのものを批判し、全国三部会の開催を要求した。マチエはこの「名士会」の召集から『フランス大革命』の論述を始めたのである。従来は1789年に始まると考えられていたフランス革命の叙述を1787年から始めたのはマチエの卓見であったが、1787年-88年の段階は「革命」ではなく「反乱」とされた。それに対してジョルジュ・ルフェーヴルは「フランス革命と農民」と題する論文において、マチエの「1787年開始説」を引き継ぎながら、「…したがって、フランス革命の開始期ではまだブルジョワ革命ではなくて貴族革命である。貴族革命は結局流産したが、それを無視してはブルジョワ革命を説明できないであろう。(中略)フランス革命の火蓋はそのために滅んでゆく階級によってきられたのであって、そのために利益をえる階級によってではなかった」と記し、マチエが「貴族の反乱」と呼んだものを「貴族革命」と言い換えた。他方、この論文の訳者である柴田三千雄氏はその著書『フランス革命』において「まず、フランス革命はいつからいつまでかといえば、1789年から99年までの約10年間とみるのが、通説です。貴族の反抗をいれると12年になりますが、それはいわば前段階です。」として「反乱(もしくは反抗)」についてはマチエ説に立ち返るとともに、フランス革命の叙述を1789年から始めている。

 1787-88年の貴族の動きが「反乱(もしくは反抗)である「革命」であるかは、一見すると些細な用語の違いにすぎないと思われるかもしれないが、この用語の違いは、「そもそも革命とは何か」という大きな問題に直結しており、フランス革命という世界史上の大事件の定義もしくは性格付けに直接にかかわる問題なのである。(ジョルジュ・ルフェーヴル著・柴田三千雄訳『フランス革命と農民』柴田三千雄著『フランス革命』より引用。) 

問い 「革命」をどのようなものと考えるとこの貴族の動きは「反乱(もしくは反抗)」とみなされ、また「革命」を逆にどのようなものと考えると同じものが革命とみなされることになるか答えなさい。絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化、フランス革命の際のスローガン等を参考に考察しなさい。
いかがだろうか。高校で学修する範囲を明らかに超えている。平均点もかなり低かったのではないだろうか。とはいえ、確かに問題文を見たときは一瞬面食らうが、素直に考えれば高校生の知識でも解けない問題ではない。大学教員が受験生にどのような能力を求めているのかを正直に示したという点で、良問と言えるのではないだろうか。

ちなみにこの問題には元ネタがある。一橋大学の山崎耕一教授による、柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか』の書評(『社会経済史学』79-2、2013年所収)である。山崎教授は「この短い書評において、「革命とは何か」というラジカルな問題を取り上げたいのである」という。冒頭の入試問題とまったく同じ問いである。

書評によると、柴田三千雄は「革命とは「国家権力を暴力的に奪取することを目的とする政治・社会運動」と定義し、 この定義に従えば「アリストクラートは現存体制を転覆する意図がないから(革命には)あてはまらない」(強調引用者)と述べた。「アリストクラート」とは問題文のいう「貴族」のこと。柴田三千雄は「貴族の反抗」を「革命」とみなさなかったのである。

ところが書評では、「柴田氏の定義でいくと『革命』と『クーデタ』はどのように区別されるのか」と問われる。その上で山崎教授は、革命を「為政者が無視できないほどの強い世論が成立しており、かつその世論が何らかの意味での自由を求めている状況において、統治の目標と理念そのものが入れ替わるような政治の変革が行われること」と定義する。この定義に従えば、1787年~88年の貴族による名士会も「革命」とみることができるのである。

さらにより十全な革命であるためには、「身分や階層などの社会構成、社会秩序や生活様式が不可逆的に変わるような社会の変革を伴うこと」が必要だと付け加える。この定義なら穏健なイギリスの名誉革命も、過激なフランス革命も、さらには「アラブの春」をも同じ土俵で論じることができる。また、「「自由を求める方向に統治の目標と理念を変化させる」という点において単なるクーデタと革命を区別できる」とされたのである。

以上を400字でまとめたものが解答になる。もちろん受験生はフランス革命をめぐる学界の議論など知らないから、推測で答えるほかない。だが教育関係者はこの書評の存在を知っておいて損はないし、意欲的な受験生も読み物として興味深く読むことができるだろう。

待ちに待ったiPhone6の発売がついに開始された。多くの店舗には行列ができ、すでに在庫切れとなった店舗も多数という情報がある。そうした中、一部地域では今も在庫を抱えている店舗もある。Twitterで情報が飛び交っているので、以下に紹介しよう。





これらの情報から判断すると、一部にはまだ在庫が豊富な店舗もあるようだ。ただし16GBのモデルはおおむね在庫切れで、通信会社別ではau、ソフトバンクの売れ行きが良い傾向にある。

一方、128GBのモデルやシルバーのモデルは在庫がある傾向にあり、どうしてもなるべく早く購入したいという読者にはこれらの機種が狙い目だと言えるだろう。

 

19世紀フランスの社会思想について学ぶなら「サン=シモン主義」を避けて通るわけにはいかない。社会主義、科学主義、実証主義、経済学など、世紀後半に花開く多くの思想をサン=シモン主義が胚胎したからである。

サン=シモン(本名クロード=アンリ・ド・ルヴロワ)が1825年に死ぬと、弟子たちはサン=シモンの思想の体系化および布教につとめた。サン=シモンの死の直前、最後の秘書となったユダヤ人銀行家のオランド・ロドリグが活動の中核を担った。

そうした中、頭角を現すのがバルテルミ=プロスペル・アンファンタンである。アンファンタンは1796年2月、パリの裕福な銀行家の子として生を受けた。理系の名門校であるエコール・ポリテクニクに進学したが、在学中に父を失い、授業料の納入困難から退学、ヨーロッパ各地を転々とし、実業家への道を歩み始める。

アンファンタンがサン=シモンの著作に触れたのはこのときである。アンファンタンはサン=シモンの弟子たちが結成した教団に入り、「至高の父」としてサンタマン・バザールとともに二頭体制で教団を指導する。

ところがサン=シモンの教義の解釈をめぐり両者は対立する。女性解放をとなえるアンファンタンによる自由恋愛の主張を、バザールは受け入れられなかった。バザールは私生児だった。結局バザールは教団を脱退し、アンファンタンは唯一の「至高の父」となる。アンファンタンの指導の下で教団は独特な制服を採用し、パリ郊外のメニルモンタンで隠遁生活を送った。

警察は彼らの不審な行動を見逃さなかった。アンファンタンは風紀紊乱の罪で起訴され、サント・ペラジ獄に収監された。

数カ月の後に出獄を許されると、アンファンタンは東方へ向けて出港する。「至高の父」であった彼は、東西両洋の融和のためにオリエントへ「母」を探しに行ったのである。

結局この活動は失敗に終わる。帰国したアンファンタンは鉄道事業に身を捧げた。パリからリヨンを経由して地中海へ通じ、現在ではTGVも走るPLM線は、アンファンタンの経営により七月王政下で実現したものである。

アンファンタンは1864年に没した。彼の名は実業家や技術者としてより、宗教者や狂信家として後世に記憶されることになった。確かにアンファンタンの思想にカルト的な要素を見出すことはできる。しかしながら、そうした宗教熱が鉄道をはじめとする19世紀フランスの土木事業や、オリエント地域における植民地建設を支えたこともまた事実なのである。

なお、アンファンタンの墓はパリ郊外のペール・ラシェーズ墓地に所在する。すぐ近くにサン=シモンの墓もあるので、興味のある読者は観光コースに組み入れてみてはいかがだろうか?

 

やらなければいけない課題があるのにtwitterで遊んでしまう…そんな経験は誰にでもあるはずだ。そんな声を反映してか、twitterには原稿催促・作業催促を目的としたbotが複数存在する。今回はそんなbotの中から特につぶやきが秀逸なものを5点選んで紹介する。〆切を抱えた読者の役に立てば幸いである。

「原稿しろ」bot

「卒論しろ」bot



「作業しろ」bot


「〆切厳守」bot


シャーロック原稿しろbot


核兵器は第二次大戦末期に開発され、冷戦中を通して世界中を恐怖に陥れた。その様子は『映像の世紀』第8集「恐怖の中の平和」に詳しい。

そんな冷戦中の核実験を視覚化したタイムラプス動画が2003年に公開され、大きな話題を集めた。日本人アーティストの橋本公氏によるものだ。



いかがだっただろうか。15分近くの動画にもかかわらず人を引き付ける力があり、思わず最後まで見てしまったという読者も多いはずだ。

動画では、史上初の原子爆弾である米国アラモゴードにおける核実験から、日本に落とされた2発の原爆、そして冷戦中に各国がしのぎを削った大量の核実験が、連続する無機質な点滅と機械音によって表現されている。

動画の作者である橋本公氏は1959年、熊本県生れ。明治大学商学部を卒業後、銀行員として17年間勤務。2001年に武蔵野美術大学に入学し、卒業設計としてこの作品を手がけた。 2001年に米国で発生した同時多発テロ、そして内戦終了後間もないカンボジアへ旅行した経験が、橋本氏にこの作品の着想を与えたという。

動画は公開後、大きな反響を呼んだ。言葉を使わずに表現されたこの作品は、世界中の人びとの心に訴えかけたのである。国や時代を超えた普遍的な価値をもつこの動画、ぜひ多くの人に知っていただきたい作品である。

 

英国の大学評価機関であるQS社(Quacquarelli Symonds)の世界大学ランキング最新版(2014/15年)が発表された。THE(Times Higher Education)のランキングと並んで世界的に有名な大学評価の指標である。首位から10位までの大学と所在国は以下の通り。

1 マサチューセッツ工科大学(米国)
2 ケンブリッジ大学(英国)
3 インペリアル・カレッジ・ロンドン(英国)
4 ハーバード大学(米国)
5 オックスフォード大学(英国)
5 ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(英国)
7 スタンフォード大学(米国)
8 カリフォルニア工科大学(米国)
9 プリンストン大学(米国)
10 イェール大学(米国)

ランキング上位を占めているのは軒並み英米の大学である。一部では評価基準が英語圏に有利ではないかという声もあるため、ランキングへの過信は禁物だろう。
ちなみに、日本からは以下の5大学が100位以内にランキングしている。

31 東京大学
36 京都大学
55 大阪大学
68 東京工業大学
71 東北大学

アジアからは他にシンガポール国立大学が22位にランクインしているほか、香港大学28位、ソウル大学校31位などとなっている。経済成長を遂げたアジア諸国の積極的な教育投資が効果をあげる結果となった。

source: topuniversities.com

これから卒論を各大学4年生にとって、まず最初の難関はテーマ選びだろう。多くの大学では、まず各種研究入門を使ってテーマを探すよう指導される。確かに研究入門には最新の研究動向が分かりやすくまとめられているが、それだけで簡単にテーマが見つけられる学生は少ないだろう。

そこでヒントになるのが過去の卒論題目である。これを参照することで、自分の興味に近いテーマが歴史学の研究対象になり得るのか判断することが出来る。

大学によってはホームページ上で過去の卒論題目一覧を公開しているところもある。以下では代表的な大学の文学部西洋史学科の卒論テーマ一覧を掲載したwebサイトを紹介する。テーマ選びの参考になれば幸いである。

国公立大学

・東京大学(文学部歴史文化学科西洋史学専修)
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/seiyoshi/students/bachelor.html 

・京都大学(文学部歴史文化学専攻西洋史学専修)
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/european_history/eh-title/#卒業論文 

・大阪大学(文学部西洋史学研究室)
http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/education-5.html

・九州大学(文学部西洋史学研究室)
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~his_west/thesis.html

・神戸大学(文学部西洋史学専修)
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/seiyoshi/student.html

・信州大学(人文学部人文学科歴史学コース西洋史分野)
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/arts/course/we-history/2011/08/43928.html
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/arts/course/we-history/2007/11/24484.html

・広島大学(文学部歴史学コース西洋史学研究室)
http://home.hiroshima-u.ac.jp/~westhis/qhmpro/index.php?%E5%8D%92%E6%A5%AD%E8%AB%96%E6%96%87%E9%A1%8C%E7%9B%AE

・岡山大学(文学部西洋史学研究室)
http://www.okayama-u.ac.jp/user/seiyoshi/program.html#学部教育 

・京都府立大学(文学部歴史学科)
http://www2.kpu.ac.jp/letters/hist_studies/gra_thes.htm

・大阪教育大学(教養学科西洋史研究室)
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~shakai/seiyosi/mokuroku.htm

・福岡教育大学(西洋史研究室)
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~tamaki/joyama/joyama.htm

私立大学

・早稲田大学(文学部西洋史コース)
http://www.waseda.jp/bun-seiyousi/bachelor.html 

・中央大学(文学部西洋史学専攻)
http://www2.chuo-u.ac.jp/seiyoshi/sotsuron2.html

・日本大学(日本大学文理学部史学科、土屋好古研究室)
http://www.chs.nihon-u.ac.jp/hist_dpt/YTHP/past_sotsuron.html

・立命館大学(文学部西洋史学専攻)
http://seiyoshi.wordpress.com/curriculum/undergraduate/thesis/

・奈良大学(文学部史学科)
http://www.nara-u.ac.jp/hist/s20/s20-03/s20-03-01.html

「ソシアビリテ」という用語は二宮宏之の手によって日本の歴史学界で知名度を得た。しかしこの言葉を歴史学に導入した近代史家モーリス・アギュロンのことは、わが国ではフランス史の専門家を除くとあまり知られていない。

モーリス・アギュロンは1926年12月20日、南仏ガール県に生まれた。1946年にリヨンの高校を卒業し、パリの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)へ入学。1950年に高等教員資格(アグレガシオン)を取得した。

同時にアギュロンはフランス共産党に入党し、政治活動に没頭する。マルクス主義者としてエルネスト・ラブルース教授の指導下で研究をつづけ、第二共和政下の南仏における社会運動について論文を発表した。

アギュロンの博論は1966年、「南仏的なる社会的結合関係(La Sociabilité méridionale)」という表題で出版された。人間同士が結びあう社交関係のあり方を意味する「ソシアビリテ(社会的結合関係)」という概念を歴史学に導入した記念碑的なこの論文で、アギュロンはアンシャン・レジーム下の南仏における悔悛苦行兄弟団とフリーメイソンという代表的なアソシアシオン(自発的社交結社)の活動を検討した。

1969年にはパリ大学ソルボンヌ校より国家博士号を取得。これによりマルセイユにあるプロヴァンス大学教授となった。72年にはパリ大学パンテオン=ソルボンヌ校教授、86年にはフランス知識人界の最高権威の一つであるコレージュ・ド・フランスの教授となった。

この間、アギュロンは政治文化史に接近する。フランス共和国の象徴「マリアンヌ」の表象をテーマに、『闘うマリアンヌ:1789~1880』(1979年)、『権力を握ったマリアンヌ:1880~1914』(1989年)、『マリアンヌの変容:1914~現代』の通称「マリアンヌ三部作」を上梓したのである。これをもってアギュロンは「アナール学派」のメンバーに位置づけられることもある。

アギュロンが生涯の最後に取り組んだテーマはシャルル・ド・ゴールである。アギュロンはよき共産主義者である前によき共和主義者であり、また愛国者だった。2014年5月28日死去。時代とともに生きた歴史家だった。アギュロンの遺したテーマは今もなおアクチュアルであり続けているのだ。

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「吉岡・堀米論争」と呼ばれる論争がある。歴史を学ぶことは役に立つのかをテーマとした昭和期の西洋史学の一大論争として現在まで語り継がれる論争である。

「役に立つ」そう主張したのは吉岡昭彦(1927~2001年)。専門は近代イギリス史、とりわけ経済史を専門とした。

吉岡は大塚久雄の比較経済史学の正統な後継者である。大塚久雄は二次大戦に敗れた日本社会の近代化の遅れを問題とし、理想的な人間類型たる「近代人のエートス」の実現を主張した。

高度成長を経て「もはや戦後ではない」とされた状況のなか、大塚史学は次第にアクチュアリティを失っていった。大塚の後継者たる吉岡は、近代社会の構造へと分析対象をシフトすることで、今なお歴史学は社会の役に立つことを示そうとした。吉岡は、歴史家はすべからく近代史を研究すべきであり、古代・中世の研究者は各1名ずつで十分だとまで主張した。

他方で、「役に立つ必要はない」と主張したのが堀米庸三(1913~1975年)である。専門は中世史。 『史学雑誌』の「回顧と展望」に掲載された「西洋史・総説」(『史学雑誌』69-5、1960年)において、堀米は自らの感性にもとづいて歴史を総合的に把握することを主張した。旧制高校の教養主義を体現する存在であった堀米にとって、歴史学は人文的な個性記述の学であり、社会の役に立つ前に個人的な人間形成の手段であった。

こうした堀米のヒューマニズムに違和感を表明したのが吉岡である。講座派マルクス主義者だった吉岡にとって、人間はいかに生きるべきかという問いは社会科学的思考なしには考えられなかった(吉岡昭彦「日本における西洋史研究について」『歴史評論』121、1960年)。

60年代に交わされた論争からすでに半世紀が経過した。だが、二人の問題意識は現在も新鮮さを失っていない。「吉岡・堀米論争」の詳細については近藤和彦『文明の表象 英国』や小田中直樹『歴史学のアポリア』に詳しい。あわせて参照されたい。

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