今日10月17日で楠瀬喜多生誕183周年を迎える。これを記念してGoogleトップページも特別ロゴに変更されている。
今日生誕183周年を迎えた楠瀬喜多(くすのせ きた)は、土佐藩(現在の高知県)出身の民権運動家。「税金を払っているのに女性だからといって投票権がないのはおかしい」と主張し、税金不払い運動を主導した人物だ。
そんな楠瀬喜多は1836年10月18日に米穀商の娘として生まれた。小山興人の塾で漢学を修めた才女でもあった。1854年、剣道師範の楠瀬実と21歳で結婚したが、17年後に死別している。
その後、楠瀬喜多は土佐で自由民権運動を主導していた立志社の講演会へ頻繁に赴くようになる。立志社は「板垣死すとも自由は死せず」で有名な板垣退助らが設立した団体で、平等な選挙権などを求めて活動していた。楠瀬喜多は立志社で河野広中ら活動家と交友する。
1878年、楠瀬喜多をある事件が襲う。夫の死後、戸主として納税していたにもかかわらず、女性であることを理由に県区会議員選挙での投票を拒否されたのだ。楠瀬喜多はこれを不服として税金を滞納、県庁や内務省に建白書を提出し、世間の耳目を集めた。今日のGoogleロゴもそんな楠瀬喜多の姿を描いている。
楠瀬喜多の運動は1880年、区町村会法として結実する。それによれば知事の認可により特例として女性参政権を認めることができ、楠瀬喜多の暮らす土佐郡上町町会に際しても県令により女性のとうひょが認められた。地方選挙に限定されるなど不完全なものではあったが、日本初の女性参政権が実現した瞬間だった。
現在、高知市上町の第四小学校正門前には「婦人参政権発祥之地」の記念碑が立てられており、楠瀬喜多は「民権ばあさん」と呼ばれ親しまれた。
なお、同時代のヨーロッパでも女性参政権は大きな問題となっていた。映画「未来を花束にして」ではサフラジェットと呼ばれた運動家たちが描かれているので、興味を持った方は鑑賞してみてはいかがだろうか。