Frankie_Manning
今日は米国出身のダンサー、フランキー・マニングの誕生日だ。これを記念してGoogleロゴも一日限定の特別アニメーションに変更されている。

この変更は記念日をお祝いする「Doodle」(ドゥードゥル)によるものだ。Doodleの公式サイトによると、フランキー・マニングの生誕102周年を記念する今日のロゴは、日本の他に米国や英国、ロシアなど一部の国で表示されている。世界的に名を知られたこのフランキー・マニング、一体どのような人物だったのだろうか。

フランキー・マニングの生涯:ダンスに生きた94年の人生

フランキー・マニング(Frankie Manning)は1914年5月26日、米国フロリダ州のジャクソンヴィルで生まれた。3歳の時に両親が離婚したため、ダンサーの母親に連れられてハーレムに移住する。

思春期に入ったフランキーは、ハーレムでダンスに魅了される。「ルネサンス・ボールルーム」などといったハーレムのダンスホールに出入りしているうちに顔役から目を付けられ、次第に頭角を現していった。1930年代にはプレステージの高いボールルーム「サヴォイ」の常連となり、当時流行していた「リンディホップ」のパフォーマンスを行うようになる。

フランキー・マニングの功績:リンディホップとは?

リンディホップ(Lindy Hop)は1920年代にNYのハーレムで生まれたダンスで、当時流行していたジャズのリズムを基調としている。1930年代以降に爆発的な流行を遂げた。

フランキー・マニングはリンディホップ業界において革新的な功績を残した。その最大のものが、彼の発明した「エア・ステップ」である。エア・ステップは踊りの途中に男性が女性を宙に放り投げてキャッチするパフォーマンス。フランキー・マニングは1935年、パートナーのフリーダ・ワシントンとコンテストに出場した際、切り札としてこの荒業を完成させたという。



このように、リンディホップのダンスシーンに革命的な影響を及ぼしたフランキー・マニングだったが、第二次大戦が始まると1943年に陸軍に入隊。ニューギニアやフィリピンで日本との戦闘に参加した。

戦後はダンスの流行が変わったことも相まって、フランキーはダンスを引退、郵便局(アメリカ合衆国郵便公社)に職を得た。ダンスホール「サヴォイ」も1958年に閉店してしまう。その後、フランキー・マニングは郵便局で30年に渡って勤務することになる。

1980年代になるとリンディホップのリバイバルが進み、フランキーの業績は再び世間から評価されることになる。フランキーは世界中でパフォーマンスを行い、またダンスのインストラクターとして活動した。そうした業績が評価され、フランキー・マニングは1989年、トニー賞を受賞した。

フランキー・マニングはその後も1992年にスパイク・リー監督の映画『マルコムX』に出演するなどキャリアを重ね、2009年に94歳で亡くなった。10代で初めてダンスホールに通うようになってから、80年に渡ってダンスとともに生きた生涯だった。

フランキー・マニングを描いた作品

フランキー・マニングは現在も人気が高く、映画をはじめ多くの作品で彼の生涯が描かれている。中でも2007年に出版された書籍『リンディーホップに愛された伝説のダンサー』はフランキー・マニングの人生を描いたドキュメンタリーで、読者の評価も高い。興味を持った方は手に取ってみてはいかがだろうか。



source: frankiemanning.com