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今日2月8日はドミトリ・メンデレーエフの誕生日。これを記念してGoogleのトップページのロゴも一日限定の特別イラストに変更されている。

ドミトリ・メンデレーエフはロシアの化学者。高校の化学の授業でもおなじみの元素の周期表を考案した人物だ。「水兵リーベ僕の船、七曲りシップスクラークか」などと言って初めの20元素を覚えた方も多いだろう。そんな周期表の生みの親であるメンデレーエフとは一体どのような人物だったのだろうか。

ドミトリ・メンデレーエフの生涯

ドミトリ・メンデレーエフは1834年2月8日、当時ロシア帝国領だったシベリアの小村に生まれた。貧しい14兄弟の末っ子で、ドミトリが14歳の時に父を亡くしたが、その後、当時首都がおかれていたサンクトペテルブルクに移住。メンデレーエフは高等師範学校に進学し、卒業後はギムナジウムの教師になるためクリミア半島に移住した。

その後、ドイツ留学などを経て、1865年からはサンクトペテルブルク大学の教授に就任。1869年、周期表の元となるアイデアを学会で発表した。

晩年にはイギリスの王立協会の外国人会員に選出されたり、ノーベル化学賞にノミネートされるなど、世界的な名声を得た。1907年2月2日死去。1955年に発見された101番目の元素は、メンデレーエフの名に因んで「メンデレビウム」と名付けられた。

ドミトリ・メンデレーエフと周期表

1869年のある晩、メンデレーエフは元素の性質について考えながら眠り込んでしまった。その夢の中では、なんと全ての元素が原子量の順番に規則正しく並んで列を作っていた。目をさましたメンデレーエフはその行列をノートに書き写した。周期表発見の逸話である。以下の画像は、メンデレーエフが最初に発表した周期表である。当時未発見だったヘリウムなどの希ガス元素が存在しないなど、現在のものとは少し異なっている。
Mendeleev's_1869_periodic_table
このメンデレーエフの周期表は、すぐに学会で認められたわけではなかった。ところが1870年代から80年代にかけて、周期表の穴を埋めるようにメンデレーエフの予言した元素が次々に発見される。こうして周期表は世界の認める所となった。

その後、希ガス元素や希土類元素が追加されるなどし、現在みられるような形の周期表となった。ドミトリ・メンデレーエフの名は現在、先述の元素名や月のクレーターの名称、都市や駅、空港の名前などとして世界中の人々に親しまれている。

photo: wikimedia.org