カテゴリ: 歴史

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本日2014年11月9日をもって、1989年の同日にベルリンの壁が崩壊してから25年が経過した。これにあわせてGoogleトップページのイラストが壁崩壊当時の写真を模したものに変更されている。記念日にあわせてロゴが変更される機能「Doodle」によるものだ。

ベルリンの壁は1961年に東西ベルリンを分断する壁として東ドイツ政府によって建造され、冷戦を象徴する悲劇として知られてきた。東西分断下における市民の苦しみを描いた映画に『善き人のためのソナタ』『トンネル』などがある。



80年代に入り、ソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフの「ペレストロイカ」を背景に、1989年11月9日、東ドイツ政府はビザ発行の規制緩和を発表。これを市民は「事実上の東西渡航自由化」と解釈し、翌日から雪崩的に壁の解体が行われたのである。

なお、ベルリンでは7日より「光の壁」(Lichtgrenze / Border of Light)とよばれるイベントが行われている。かつてベルリンの壁があった場所にLEDライトの入った8000個の風船を配置する記念行事だ。最終日となる9日は風船を一勢に空へ飛ばし、壁の崩壊が祝われる。こちらもあわせてチェックしたい。



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ベルリンで11月7日より、8000個の風船を点灯させるナイトイベント「光の壁」(Lichtgrenze / Border of Light)が行われる。ベルリンの壁崩壊25周年を記念するもので、風船はかつてベルリンの壁があった場所に置かれるという。
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「光の壁」はベルリン市内におよそ15kmにわたって設置され、かつての東西分断の象徴であるベルリンの壁を再現する。関連したガイド展示とあわせて、東西ベルリン分断の歴史を記憶に残そうという趣旨だ。
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風船は7日より点灯が開始され、東ドイツ政府が東西の通行を許可した記念すべき日である11月9日、一斉に空へ放たれるという。日本人から見てもなかなか感動的な光景だが、分断の時代を生きたベルリン市民にとってはおそらく特別の感慨を生むのだろう。この時期にドイツを訪れるという読者はぜひチェックしたいイベントである。

 

カールスバーグといえばデンマークを代表するビールメーカー、のどごしの良いラガータイプで、ハイネケンとならんでヨーロッパを代表する銘柄として日本にも多くのファンを持つ。



そんなカールスバーグ、今回アイルランドにおけるPRキャンペーンで、大きな失敗をしてしまった。

事の発端は街頭広告に掲載された「1847年は史上最高の年(1847: Our best ever since date)」という文言だった。1847年はカールスバーグ創業の年。一見何の変哲もない広告文に見える。

ところが、広告を打った場所が問題だった。アイルランドで1847年は特別な意味をもつ年号だったのである。少し遡って1845年、アイルランドでは主食のジャガイモに疫病が蔓延し、重大な飢饉が発生した。飢饉はそれから4年間継続し、餓死や移民などでアイルランドの人口は半分近くまで減少した。1847年はアイルランドにとって、忘れられない悪夢の年だったのである。


上のツイートは英国北アイルランド・クイーンズ大学ベルファスト教授のピーター・グレイによるもの。「カールスバーグ社はPRにおいて歴史学者をアドバイザーとして雇うべきだった」と皮肉がきいている。

企業の海外進出に際して思わぬ文化や歴史の差に直面することは少なくない。今回の一件はそのことをあらためて私たちに教えてくれたと言えるだろう。

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1852年、ナポレオン3世が皇帝に即位することで始まったフランス第二帝政は、大きく二つの時期に分かれるとされる。皇帝が強権をふるった前半の「権威帝政」と、民主化が進んだ後半の「自由帝政」だ。

この1860年から70年にかけての「自由帝政」 期に活躍した共和主義政治家がエミール・オリヴィエだ。オリヴィエは帝政末期の1969年に首相に就任し、オリヴィエが首相であった時期を特別に「議会帝政」と呼ぶこともある。皇帝ナポレオン3世の下で首相として活躍したエミール・オリヴィエとは、一体どのような 人物だったのだろうか?

エミール・オリヴィエは復古王政下の1825年、共和派の大物政治家デモステーヌ・オリヴィエを父に、マルセイユで生まれた。8歳で母を亡くしたが、王立コレージュ、法科大学を卒業、七月王政期の1847年、22歳で弁護士としてキャリアをスタートした。

翌1848年、二月革命が勃発。 国王ルイ・フィリップは亡命し、第二共和政が樹立した。エミール・オリヴィエは父デモステーヌの伝手で臨時政府委員に任命され、出身地のマルセイユがあるブーシュ=デュ=ローヌ県とヴァール県へ赴任した。

ところが、国立作業場の閉鎖を皮切りに起こった労働者による六月暴動は、オリヴィエの経歴を大きく変えた。暴動はマルセイユでも凄惨を極め、オリヴィエはその責任を取らされオート=マルヌ県へ左遷、翌1849年1月には政府委員を解任された。オリヴィエは一介の弁護士へ戻ることを余儀なくされた。

1851年12月2日、皇帝ナポレオン1世の甥であるルイ=ナポレオン・ボナパルトがクーデタを起こし、対立する共和派議員を一斉検挙した。デモステーヌもベルギーへの亡命を強いられることになる。翌1852年、ルイ=ナポレオンは国民投票によって第二帝政を開始、ナポレオン3世として即位した。

オリヴィエにとって転機となったのは帝政下の1857年に行われた立法院選挙である。前年の裁判における弁護で有名人となっていたオリヴィエは、共和派の地盤であるパリから代議士に選出された。同じく共和派のダリモン、ファーヴル、ピカール、エノンと共同で「五人組」と呼ばれる派閥を形成し、野党のスター政治家として国政に躍り出た。

オリヴィエは私生活の面でも興味深い人間関係を持っている。1857年には音楽家フランツ・リストの長女ブランディーヌと結婚した。

1863年、立法院の改選に際して、オリヴィエはパリから再選された。この選挙では穏健共和派が議席を拡大し、「第三党」と呼ばれる派閥を形成した。これを危惧したのが立法院議長シャルル・ド・モルニーである。ルイ=ナポレオンによる1851年クーデタの陰の立役者だったモルニーは、野党の中心人物であるオリヴィエを懐柔することで、政権の維持を画策したのである。

翌1864年、オリヴィエはモルニーと協力し、労使対立における団結権を認める法律案の作成に携わる。オリヴィエは委員会報告者として労働者の権利拡大に尽力したが、このことはかつての仲間であった共和派との間に溝を深める結果となった。

1869年の立法院選挙でオリヴィエは共和派の支持を失い、パリで落選してしまう。 代わりにオリヴィエを選出したのは地元ヴァール県だった。かくして彼は三選を果たす。

オリヴィエが首相に任命されたのはこのすぐ後である。 翌1870年1月に組閣、4月にはラマルティーヌの後を襲ってアカデミー・フランセーズ会員に選出された。おそらく、このときがオリヴィエの人生の絶頂だった。

同年、ビスマルクの挑発に応じて普仏戦争を敢行。戦況の悪化に伴って与野党からの支持を失い失脚、イタリアに亡命した。

帝政崩壊後の73年に帰国。選挙に出馬するも結果は芳しくなく、以後は帝政を擁護するため著述活動に専念した。

このとき著されたのが第二帝政に関する記念碑的著作『自由帝政』である。全17巻+索引からなるこの大部の著作は、現在に至るまで一級史料として第二帝政研究者から参照され続けている。

第一次大戦勃発直前の1913年、オリヴィエは南仏オート=サヴォワ県にて死去。 第二帝政崩壊から43年、あまりに長すぎる余生であった。

なお、オリヴィエを含めた第二帝政について手軽に知るなら、鹿島茂『怪帝ナポレオン3世』、ティエリー・ランツ『ナポレオン3世』などが参考になる。研究書なら野村啓介『フランス第二帝制の構造』が権威帝政と自由帝政の区分や行政制度について考察している。あわせて参照されたい。

現代フランスを代表する知識人であるピエール・ロザンヴァロン(Pierre Rosanvallon)の名前は、わが国では専門家を除いてほとんど知られていない。しかしながら、豊富な歴史知識に裏打ちされた彼の政治哲学は、現代社会に多くの示唆を与えてくれる。民主主義や福祉国家について積極的に発言を行っているピエール・ロザンヴァロンとは一体どのような人物なのだろうか?

ロザンヴァロンは1948年、サントル地域圏のブロワに生まれた。名門グランゼコールであるHEC経営大学院を1969年に卒業するなど、順調にキャリアを開始する。

この間、ロザンヴァロンは政治活動へ没頭した。労働組合のCFDTや統一社会党へ参加し、76年には左翼運動に思想的基礎を与える著作『自主管理の時代』(L'Âge de l'autogestion)を発表、一時は政治家となる道も噂された。

ところが、ロザンヴァロンは研究に復帰する。1979年、クロード・ルフォール(Claude Lefort)の指導下で、近世~近代の経済思想をテーマとした第3課程博士論文『ユートピア的資本主義』(Le Capitalisme utopique)を執筆し、続いて1985年には19世紀前半の自由主義を扱った国家博士論文『ギゾーのモーメント』(Le Moment Guizot)を完成させる。これによりロザンヴァロンは歴史研究者としての地位を確固たるものとした。
 
とはいえ、ロザンヴァロンは社会参加への志向を捨てたのではなかった。1982年にはフランス革命修正派の歴史学者として知られるフランソワ・フュレと共同で「サン=シモン財団」を設立。学界と財界を接続するシンクタンクとして、フュレの死後、1999年まで活動を続けた。なおサン=シモン財団からは、『21世紀の資本論』で脚光を浴びている経済学者トマ・ピケティなども輩出した。

ロザンヴァロンが主として研究に従事した機関は社会科学高等研究院(EHESS)である。フュレも院長を務めたこの機関で、彼は主任教授として研究・教育に携わった。2001年にはフランスの最も権威ある学術機関の一つ、コレージュ・ド・フランスの近代政治史講座担当の教授に任命される。現在はコレージュで政治哲学をテーマとする講義を行いつつ、主として研究活動に従事している。

国家博士論文脱稿後のロザンヴァロンの仕事は、主としてフランス革命後の近代民主主義を主題とした政治哲学の領域で展開されている。1990年の『フランス国制史:1789年~現代』(L'État en France de 1789 à nos jours)を皮切りに、2004年の『フランス型政治モデル』(Le Modèle politique français)に至るまで、フランス革命によって打ち出された一般意思に基づく政治原理の持続性を強調した。

他方でロザンヴァロンは、社会福祉についても積極的に発言を行っている。1981年に発表された『福祉国家の危機』(La Crise de l'État-providence)、あるいは近年の『連帯の新たなる哲学』(La nouvelle question sociale)がそれだ。

このようにロザンヴァロンの研究テーマは多岐にわたるため、わが国では幅広い領域の研究者によって受容されている。例えば、歴史学では19世紀史を専門とする喜安朗小田中直樹が著書でロザンヴァロンに言及している。法学では高村学人がロザンヴァロンに依拠して法制史の論文を書いている。

さらに、社会思想史では北垣徹や田中拓道がEHESSに留学し、ロザンヴァロンの指導を受けている。ロザンヴァロンを含むEHESSの政治哲学派については宇野重規『政治哲学へ』が参考になる。研究の全体像把握が困難なロザンヴァロンだが、フランス現代社会科学を理解するうえで避けては通れない研究者だと言えるだろう。

一橋大学で出題される世界史の入試問題は、東大をも凌ぐほどの難易度として関係者の間で有名である。そんな一橋大で2013年、こんな問題が出題された。
第2問

 次の文章を読んで、下線部に関する問いに答えなさい。

 フランスの歴史家アルベール・マチエはその著書『フランス大革命』の第一巻を「君主制の瓦解(1787年-1792年)」とし、その第二章を「貴族の反乱」とした。王室財政の破産がこのままでは不可避とみた国王政府は、貴族への課税を中心とする改革案を作り、主として大貴族からなる「名士会」を1787年に召集して改革案の承認を求めたが、「名士会」は、貴族が課税されることよりも、むしろこのように臨時にしか貴族が国政に発言できない政治体制そのものを批判し、全国三部会の開催を要求した。マチエはこの「名士会」の召集から『フランス大革命』の論述を始めたのである。従来は1789年に始まると考えられていたフランス革命の叙述を1787年から始めたのはマチエの卓見であったが、1787年-88年の段階は「革命」ではなく「反乱」とされた。それに対してジョルジュ・ルフェーヴルは「フランス革命と農民」と題する論文において、マチエの「1787年開始説」を引き継ぎながら、「…したがって、フランス革命の開始期ではまだブルジョワ革命ではなくて貴族革命である。貴族革命は結局流産したが、それを無視してはブルジョワ革命を説明できないであろう。(中略)フランス革命の火蓋はそのために滅んでゆく階級によってきられたのであって、そのために利益をえる階級によってではなかった」と記し、マチエが「貴族の反乱」と呼んだものを「貴族革命」と言い換えた。他方、この論文の訳者である柴田三千雄氏はその著書『フランス革命』において「まず、フランス革命はいつからいつまでかといえば、1789年から99年までの約10年間とみるのが、通説です。貴族の反抗をいれると12年になりますが、それはいわば前段階です。」として「反乱(もしくは反抗)」についてはマチエ説に立ち返るとともに、フランス革命の叙述を1789年から始めている。

 1787-88年の貴族の動きが「反乱(もしくは反抗)である「革命」であるかは、一見すると些細な用語の違いにすぎないと思われるかもしれないが、この用語の違いは、「そもそも革命とは何か」という大きな問題に直結しており、フランス革命という世界史上の大事件の定義もしくは性格付けに直接にかかわる問題なのである。(ジョルジュ・ルフェーヴル著・柴田三千雄訳『フランス革命と農民』柴田三千雄著『フランス革命』より引用。) 

問い 「革命」をどのようなものと考えるとこの貴族の動きは「反乱(もしくは反抗)」とみなされ、また「革命」を逆にどのようなものと考えると同じものが革命とみなされることになるか答えなさい。絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化、フランス革命の際のスローガン等を参考に考察しなさい。
いかがだろうか。高校で学修する範囲を明らかに超えている。平均点もかなり低かったのではないだろうか。とはいえ、確かに問題文を見たときは一瞬面食らうが、素直に考えれば高校生の知識でも解けない問題ではない。大学教員が受験生にどのような能力を求めているのかを正直に示したという点で、良問と言えるのではないだろうか。

ちなみにこの問題には元ネタがある。一橋大学の山崎耕一教授による、柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか』の書評(『社会経済史学』79-2、2013年所収)である。山崎教授は「この短い書評において、「革命とは何か」というラジカルな問題を取り上げたいのである」という。冒頭の入試問題とまったく同じ問いである。

書評によると、柴田三千雄は「革命とは「国家権力を暴力的に奪取することを目的とする政治・社会運動」と定義し、 この定義に従えば「アリストクラートは現存体制を転覆する意図がないから(革命には)あてはまらない」(強調引用者)と述べた。「アリストクラート」とは問題文のいう「貴族」のこと。柴田三千雄は「貴族の反抗」を「革命」とみなさなかったのである。

ところが書評では、「柴田氏の定義でいくと『革命』と『クーデタ』はどのように区別されるのか」と問われる。その上で山崎教授は、革命を「為政者が無視できないほどの強い世論が成立しており、かつその世論が何らかの意味での自由を求めている状況において、統治の目標と理念そのものが入れ替わるような政治の変革が行われること」と定義する。この定義に従えば、1787年~88年の貴族による名士会も「革命」とみることができるのである。

さらにより十全な革命であるためには、「身分や階層などの社会構成、社会秩序や生活様式が不可逆的に変わるような社会の変革を伴うこと」が必要だと付け加える。この定義なら穏健なイギリスの名誉革命も、過激なフランス革命も、さらには「アラブの春」をも同じ土俵で論じることができる。また、「「自由を求める方向に統治の目標と理念を変化させる」という点において単なるクーデタと革命を区別できる」とされたのである。

以上を400字でまとめたものが解答になる。もちろん受験生はフランス革命をめぐる学界の議論など知らないから、推測で答えるほかない。だが教育関係者はこの書評の存在を知っておいて損はないし、意欲的な受験生も読み物として興味深く読むことができるだろう。

19世紀フランスの社会思想について学ぶなら「サン=シモン主義」を避けて通るわけにはいかない。社会主義、科学主義、実証主義、経済学など、世紀後半に花開く多くの思想をサン=シモン主義が胚胎したからである。

サン=シモン(本名クロード=アンリ・ド・ルヴロワ)が1825年に死ぬと、弟子たちはサン=シモンの思想の体系化および布教につとめた。サン=シモンの死の直前、最後の秘書となったユダヤ人銀行家のオランド・ロドリグが活動の中核を担った。

そうした中、頭角を現すのがバルテルミ=プロスペル・アンファンタンである。アンファンタンは1796年2月、パリの裕福な銀行家の子として生を受けた。理系の名門校であるエコール・ポリテクニクに進学したが、在学中に父を失い、授業料の納入困難から退学、ヨーロッパ各地を転々とし、実業家への道を歩み始める。

アンファンタンがサン=シモンの著作に触れたのはこのときである。アンファンタンはサン=シモンの弟子たちが結成した教団に入り、「至高の父」としてサンタマン・バザールとともに二頭体制で教団を指導する。

ところがサン=シモンの教義の解釈をめぐり両者は対立する。女性解放をとなえるアンファンタンによる自由恋愛の主張を、バザールは受け入れられなかった。バザールは私生児だった。結局バザールは教団を脱退し、アンファンタンは唯一の「至高の父」となる。アンファンタンの指導の下で教団は独特な制服を採用し、パリ郊外のメニルモンタンで隠遁生活を送った。

警察は彼らの不審な行動を見逃さなかった。アンファンタンは風紀紊乱の罪で起訴され、サント・ペラジ獄に収監された。

数カ月の後に出獄を許されると、アンファンタンは東方へ向けて出港する。「至高の父」であった彼は、東西両洋の融和のためにオリエントへ「母」を探しに行ったのである。

結局この活動は失敗に終わる。帰国したアンファンタンは鉄道事業に身を捧げた。パリからリヨンを経由して地中海へ通じ、現在ではTGVも走るPLM線は、アンファンタンの経営により七月王政下で実現したものである。

アンファンタンは1864年に没した。彼の名は実業家や技術者としてより、宗教者や狂信家として後世に記憶されることになった。確かにアンファンタンの思想にカルト的な要素を見出すことはできる。しかしながら、そうした宗教熱が鉄道をはじめとする19世紀フランスの土木事業や、オリエント地域における植民地建設を支えたこともまた事実なのである。

なお、アンファンタンの墓はパリ郊外のペール・ラシェーズ墓地に所在する。すぐ近くにサン=シモンの墓もあるので、興味のある読者は観光コースに組み入れてみてはいかがだろうか?

 

核兵器は第二次大戦末期に開発され、冷戦中を通して世界中を恐怖に陥れた。その様子は『映像の世紀』第8集「恐怖の中の平和」に詳しい。

そんな冷戦中の核実験を視覚化したタイムラプス動画が2003年に公開され、大きな話題を集めた。日本人アーティストの橋本公氏によるものだ。



いかがだっただろうか。15分近くの動画にもかかわらず人を引き付ける力があり、思わず最後まで見てしまったという読者も多いはずだ。

動画では、史上初の原子爆弾である米国アラモゴードにおける核実験から、日本に落とされた2発の原爆、そして冷戦中に各国がしのぎを削った大量の核実験が、連続する無機質な点滅と機械音によって表現されている。

動画の作者である橋本公氏は1959年、熊本県生れ。明治大学商学部を卒業後、銀行員として17年間勤務。2001年に武蔵野美術大学に入学し、卒業設計としてこの作品を手がけた。 2001年に米国で発生した同時多発テロ、そして内戦終了後間もないカンボジアへ旅行した経験が、橋本氏にこの作品の着想を与えたという。

動画は公開後、大きな反響を呼んだ。言葉を使わずに表現されたこの作品は、世界中の人びとの心に訴えかけたのである。国や時代を超えた普遍的な価値をもつこの動画、ぜひ多くの人に知っていただきたい作品である。

 

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