Napoleon_III_-_Boutibonne_1856
ナポレオン3世と聞いて、一体どんなイメージを持つだろうか?

「国民の人気だけで政権を握ったバカ」などといったネガティブなイメージはもう昔の話。50年前の学説だ。今日、フランスの歴史研究者の多くは彼の進歩的な側面に着目している。すなわちパリを近代的な街へと改造し、全国に鉄道網を敷設し、万国博覧会を実現した「産業皇帝」としての側面である。

一体なぜナポレオン3世はフランス第二帝政期の産業発展を実現しえたのだろうか? フランスを代表する経済史研究者であるアラン・プレッシは『L'Histoire』誌に掲載した論文の中で、その秘密を「サン=シモン主義」にあると主張する。

サン=シモン主義とはご存知の通り、カール・マルクスの定義した「空想的社会主義」の一潮流だ。プレッシによれば、ナポレオン3世はサン=シモン主義者であり、その思想に基づき経済政策を行ったというのである。意外に思われた読者も多いかもしれない。何せナポレオン3世は、マルクスがその主著『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中で「惨めな笑劇」として酷評した人物である。そのナポレオン3世が社会主義者というのは俄かには信じられない。

しかしながら、ナポレオン3世がサン=シモン主義者であったという主張には一理ある。なぜならナポレオン3世は政権掌握後、サン=シモンの一番弟子ことバルテルミ=プロスペル・アンファンタンとともに活動した経済学者のミシェル・シュヴァリエを経済顧問として重用するなど、多くのサン=シモン主義者を政権首脳部に招き入れたからである。

【参考】サン=シモン主義の「至高の父」:バルテルミ=プロスペル・アンファンタンとは?

ナポレオン3世の政治理念とは一体いかなるものだったのだろうか? かつてマルクス主義が学界を席巻していた時期、こうした問いは無価値として退けられてきた。ナポレオン3世は一貫した理念など持たなかったと考えられてきたのである。しかしながら今日、そうした偏見は後景に退きつつあり、ナポレオン3世の政治理念を再評価しようとする研究が日本でも盛んになっている。

あるフランス人歴史家は、ナポレオン3世には「三文文士の才能」があったと評価した。ナポレオン3世は在野期、政治的プロパガンダを目的とした複数の著作を刊行していた。以下ではナポレオン3世の著作の内容を一冊ずつ検討し、彼の経済思想がいかなるものであったのかを考察する。典拠は1856年から69年にかけてプロン出版社から刊行された全5巻からなる『ナポレオン3世著作集』である。本エントリで検討するのは、その中でも彼の経済思想が色濃く表れた1840年以降の著作である。

1840年、ナポレオン1世の遺骸がセント=ヘレナ島からパリへと移送された。これを好機と見たルイ=ナポレオンは政権奪取をもくろみ、ブローニュ=シュル=メールで蜂起を画策。ところがこの計画は敢え無く失敗。敏腕弁護士ピエール・アントワーヌ・ベリエの弁護もむなしく、彼は終身刑を宣告され、アム牢獄に収監される。

しかしながらルイ=ナポレオンは諦めなかった。彼は獄中で幼なじみのコルニュ夫人から書籍を差し入れてもらい、経済学の勉強に励む。その中にはもちろんサン=シモンの著作もあった。彼は勉学の成果を複数の著作にまとめている。中でも注目すべきなのは『砂糖問題の考察』『貧困の撲滅』『ニカラグア運河』の3冊である。

『砂糖問題の考察』(Analyse de la question des sucres, 1842)
『砂糖問題の考察』は当時のフランスで議論の的となっていた砂糖貿易の問題に関する著作である。本書でルイ=ナポレオンは、フランスの各地で生産されるテンサイ糖と、植民地で生産されるサトウキビ由来の砂糖との利害対立の解決策を提唱した。

彼は諸利害の調整法を提案するとともに、そもそもの問題である貧困の解決策をも提案する。それはすなわち、休閑地の廃止による農業生産性の向上である。こうした重農主義的な経済の底上げは彼の経済思想の根幹をなすものだが、この主張は続く著作『貧困の撲滅』において顕著に見られる。

『貧困の撲滅』(L'Extinction du paupérisme, 1844)
本書はルイ=ナポレオンの経済思想を体現したものと言える。彼は次のように述べ、自由放任の無秩序な産業による民衆の抑圧を批判する。
産業、この富の源泉は今日、規制も組織も目的も持たない。産業は調整機なしで作動する機械である。産業は自身の用いる原動力にはほとんど関心を持たない。産業は、原材料である人間を歯車の中で押しつぶし、農村から人口を奪い、空気のない場所に人口を集め、身体とともに精神をも衰弱させる。産業がこれ以上何も成しえないときは、自らを富ませるために、力と若さと生活を犠牲にしてきた人々を街路に打ち棄てる。紛うことなき労働のサトゥルヌスである産業は、わが子を食らい、その死によってのみ生きるのである。
いかがだろうか。もしこれがルイ=ナポレオンの著作と知らされなければ、マルクスやエンゲルスの手によるものと言われても信じてしまうのではないだろうか。少なくとも1844年の時点で、後のナポレオン3世は明らかに社会主義者であった。本書『貧困の撲滅』中に登場する「国内の最大多数を占める民衆層の境遇改善」という表現が、サン=シモンの著作に見られる表現に酷似していることは、多くのフランス人歴史家が指摘している。

前著『砂糖問題の考察』に引き続き、ルイ=ナポレオンは重農主義的な貧困撲滅プランを提示する。すなわち都市部の余剰人口を農村に入植させ、共同で休耕地を開墾させ、そこに農村コロニーを形成しようというプランである。旧ソ連の集団農場「コルホーズ」に似ていると感じた読者もいるだろう。これも既に複数の研究者によって指摘されているポイントである。本書『貧困の撲滅』は、通俗的なルイ=ナポレオンのイメージを覆してくれる著作なのである。

『ニカラグア運河』(The Canal of Nicaragua, 1846)
ニカラグアはパナマのやや北にある中米の国。ここに運河を通そうという計画はつい最近、中国企業のイニシアチブによりようやく実行に移された。そのアイデアを2世紀も前に考案していた所にルイ=ナポレオンの先見性が現れている。

フランスの労働運動史研究者ジャン・サーニュによれば、このアイデアもサン=シモン主義の影響なのだという。先述のアンファンタンは交通ネットワークの拡充により東洋と西洋を結合し、世界平和による理想社会の実現を説いたが、ルイ=ナポレオンによるニカラグア運河の掘削計画はこのアンファンタンのビジョンに完全に合致する。もっとも、ルイ=ナポレオンの主眼は運河の経済効果にある。地中海交易の要衝であるコンスタンティノープルと同様、ニカラグアを交易の中心拠点にしようというのだ。

ちなみにこの著作には日本も登場する。運河の実現により日本への航海が容易になれば、経済的利益のため江戸幕府も開国を決断するだろうと書かれているのだ。時はペリー来航の7年前。将来のフランス皇帝の先見性はここにも現れているのだった。

『ニカラグア運河』のプランを考案する前後、ルイ=ナポレオンは石工に変装して脱獄。2年後、二月革命の勃発に伴い帰国して大統領に、次いで皇帝に就任する。皇帝ナポレオン3世の治世下でフランスは目覚ましい産業発展を遂げ、現代に通じる経済構造の基礎が築かれた。現代フランスを理解するために、ナポレオン3世在野期の思想の解明は避けて通ることのできない作業なのである。

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