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かつてフランス革命といえば階級闘争の歴史を意味した。アンシャン・レジームにおいて力を握っていた貴族が打倒され、代わってブルジョワジーが権力を握るというマルクス主義の歴史叙述が学界を席巻していた。

そうした潮流に異を唱えたのがフランス20世紀を代表する歴史家フランソワ・フュレ(François Furet)である。その過激な主張から毀誉褒貶が激しく、論争相手からは「修正主義者」のレッテルを張られることもあるフュレだが、彼の学説と生涯がわが国で周知されているとは言い難い。フランス本国でも今なお評価の定まっていないこの歴史家は、一体いかなる経歴をたどってきたのだろうか。

裕福な出自と共産党経験

フランソワ・フュレは1927年、パリで生まれた。父親は銀行の頭取で、何不自由ない出自のように思われた。ところが、彼は18歳の時に母親を失う。それが災いしてか高等師範学校(ENS)の入試に落第、パリ大学ソルボンヌ校へ進学する。

彼の不幸はそれにとどまらなかった。パリ大学在学中の1950年に肺結核へ罹患、4年間にわたるサナトリウムでの療養生活を余儀なくされる。結果、彼のアグレガシオン(高等教員資格)取得は同年代の学生に比べ大幅に遅れてしまう。

この頃、フュレはフランス共産党(PCF)に入党した。共産党へのコミットは当時の知的な文系学生にとってありふれたものだった。ここでフュレは、将来「アナール派」の中心人物として活躍する歴史家エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリやモーリス・アギュロンらと知り合いになる。
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1956年にスターリン批判やハンガリー動乱が起こり、共産党の正当性が疑わしくなると、フュレは党を離反、独自の研究に専念する。当時共産党の理論的支柱であったエルネスト・ラブルースの指導下でパリ周辺におけるフランス革命の動向を研究していたものの、史料を読み進めるうちに、貴族が打倒されブルジョワジーが覇権を握ったとするマルクス主義的な「ブルジョワ革命」史観に疑いをもつようになったのである。

フランス革命「修正派」として

1964年、フランソワ・フュレはドニ・リシェと共同で大部の『フランス革命』(アシェット社)を世に問う。当時支配的だった共産党系の歴史家アルベール・ソブールを批判した本書は、学界に大きなセンセーションを巻き起こす。1978年には代表作である『フランス革命を考える』をガリマール社より出版。日本でも革命200周年に合わせて岩波書店より翻訳が出版され、話題を呼んだ。
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そんなフュレを受け入れたのは通常の大学ではなく、独立度の高い研究機関である高等研究実習院(EPHE)だった。フュレは、「アナール派」の創始者リュシアン・フェーヴルによって設立されたEPHEの第6部門にポストを得る。1975年にEPHE第6部門が「社会科学高等研究院」(EHESS)として独立すると、1977年から85年まで院長を務める。これを記念して、EHESSには現在でもフュレの名を冠した大講堂が存在する。

学界の巨人へ

フュレは通常の研究だけでなく、現実政治にもコミットした。先述の通り学生時代は共産党に加入していたし、1982年には友人のル=ロワ=ラデュリらと「サン=シモン財団」とよばれるシンクタンクを設立。サン=シモンとは初期社会主義者のアンリ・サン=シモンにちなんで付けられた名称である。財団はヨーグルトやシリアルで知られる食品会社のダノンなどといった大企業から出資を受け、財界と学術界を接続するパイプの役割を果たした。財団の書記には政治思想史研究者のピエール・ロザンヴァロンが就任したほか、現在『21世紀の資本』で脚光を浴びているトマ・ピケティもこの財団に所属した。

その後フュレは1997年にアカデミー・フランセーズ会員に選出。学界の頂点を極めた。ところがその直後、不運にも事故により死去。フュレの最後の著作に『幻想の過去』がある。社会主義を全体主義の一形態として論じた本書は、フュレの生涯の集大成と言える。政治的関心を学術研究により実現しようとしたフュレの著作は、フランスにおける一知識人の軌跡として、今なお参照に値するのである。

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