2020年東京オリンピックのメインスタジアムとなる新国立競技場の今後について、議論が沸騰している。事の発端は、コンペ(設計競技)に入選したザハ・ハディドによるプランが当初の予算では実現不可能だと判明したことにあった。あまりに奇抜なデザインであったために、安全性の確保などの問題を解決するために莫大な予算が必要とされたのである。

こうした事態に対し、槇文彦をはじめとした日本を代表する建築家らが一斉に反対。その結果、当初の案を大幅に縮小した形で新たな修正案が発表された。こじんまりとした何とも見栄えのしないデザインである。ところが、この修正案でもなお当初の予算をオーバーすることが明らかとなったのだ。

これを受けて、世界的建築家である磯崎新が5日、この問題に関する意見書をマスコミ各社へ送付した。ここでは、新国立競技場を「粗大ゴミ」と表現するなど、激しいトーンでの批判が行われた。一体なぜ磯崎はこれほどまでに過激な主張を行ったのだろうか。

磯崎新は新国立競技場について「将来の東京は巨大な「粗大ゴミ」を抱え込むことになる」 として激しく批判する。この部分だけ読むなら、ザハ・ハディドの荒唐無稽なプランに対する批判のように思える。しかし意見書の冒頭を読むと、「21世紀の都市的施設として、運動競技のスピード感を呼び起こす、優れたイメージをあらわすデザイン」であるとしてザハを肯定的に評価していることが分かる。

磯崎が真に問題としたかったのは、コンペ当選後の幾度にもわたるプラン修正の過程に他ならない。磯崎は修正案を評し、「当初のダイナミズムが失せ、まるで列島の水没を待つ亀のような鈍重な姿」になってしまったと手厳しい。

磯崎の主張の核心は、次の3点にある。すなわち(A)オリンピック後を見据えた持続的な施設とすること(B)開会式は祝祭性を重視し、新国立競技場ではなく皇居二重橋で、マスメディアを結集して行うこと(C)コンペの審査結果を尊重すること、これである。

市民や景観を重視する(A)の主張や、祝祭性を重視する(B)の主張は、かつて都庁コンペでオリジナルな低層庁舎案を打ち出した磯崎らしい提言である。最後の(C)の主張に関しては留意が必要だ。当選した「案」なるものに固執するあまり、話し合いを重ねるうちに当初のプランにあった長所が忘れ去られてしまう危険性があるためである。

そこで磯崎は、 当選した「建築家」たるザハ・ハディド自身に、今一度設計のやり直しを提案することを主張する。磯崎の主張を一言で要約するなら、この箇所を引用するのが妥当であろう。磯崎はザハの能力を信頼する。今ある「プラン」をマイナーチェンジするよりは、ザハに一から設計をやり直してもらった方がはるかに良いと考えるのである。磯崎の主張するように国立競技場で開会式を行うことにこだわらないなら、実情に見合ったよりよいプランが打ち出せるであろう。ザハにはその能力がある、そう磯崎は主張しているのだ。

磯崎新は、かつて大分県立図書館の設計に携わった際、予算の都合から当初の案を幾度も修正することを余儀なくされた。業界の酸いも甘いも経験した建築家の言は重い。なお意見書の全文はarchitecturephoto.netで見ることができる。ぜひ熟読した上で、一人の日本人として今一度、国立競技場の今後について再考したい。