お洒落なカフェやバーに行くと、缶に「1664」と大きく印字してあるビールが置いてあるのを見る機会があるかもしれない。これはフランスの代表的なビール「クローネンブルグ(Kronenbourg)」だ。

ヨーロッパでビールといえばドイツやオランダが有名だが、フランスでもドイツとの国境線沿いのアルザス地方ではビール生産が盛んだ。クローネンブルグはそのアルザスを代表するビールメーカーで、ラベルに掲げてある1664とは醸造所の創設年を表している。

日本では主に「1664」のブランドのみが飲食店等で提供されているが、フランスでは通常の「Kronenbourg」も含めて酒店やスーパーで販売されている。通常バージョンは赤い缶が目印、青を基調としたデザインの「1664」はやや高級なバージョンだ。いずれもラガータイプで飲みやすいが、「1664」の方がすっきりした味わい。値段は通常バージョンが500ml缶1ユーロ、1664は1.5ユーロほどで売られている。

ちなみに今年2014年、クローネンブルグは創業350年を迎える。ビールが好きだという読者は、フランスへ旅行した際、記念に手に取ってみてはいかがだろうか。


スウェーデン・アカデミーは9日、2014年のノーベル文学賞をパトリック・モディアノ氏に授与することを発表した。

パトリック・モディアノ(Patrick Modiano)氏は1945年生まれのフランス人作家。パリ南西部のブローニュ=ビアンクール出身。下馬評では以前より受賞を噂されていたが、満を持しての受賞となった。

モディアノ氏の作品の中には日本語訳されているものも数点ある。現在も入手できるものを以下にリストアップしたので、読者の参考になれば幸いである。

・Dans le café de la jeunesse perdue
失われた時のカフェで』平中悠一訳、作品社、2011年。


・Dora Bruder
1941年。パリの尋ね人』白井成雄訳、作品社、1998年。


・Dimanches d'aodût
八月の日曜日』堀江敏幸訳、水声社、2003年。


・Rue des Boutiques Obscures
暗いブティック通り』平岡篤頼訳、白水社、2005年。


・Livret de famille
家族手帳』安永愛訳、水声社、2012年。

『タイムズ・ハイアー・エデュケーション(THE)』は1日、毎年恒例となっている世界大学ランキングの最新版(2014-15)を発表した。

THEは英米系メディアの『タイムズ』が毎年秋に発行する教育情報誌。9月に発表されるQS社のランキングと並んで、世界中の注目を集めるランキングである。

気になる上位校とその所在国は以下の通り。 

1. カリフォルニア工科大学(米国)
2. ハーバード大学(米国)
3. オックスフォード大学(英国)
4. スタンフォード大学(米国)
5. ケンブリッジ大学(英国)
6. マサチューセッツ工科大学(米国)
7. プリンストン大学(米国)
8. カリフォルニア大学バークレー校(米国)
9. インペリアル・カレッジ・ロンドン(英国)
9. イェール大学 (米国)

今回も上位層を英語圏が独占している。首位のカリフォルニア工科大学(Caltech)は聞きなれない大学だが、THEの世界ランキングでは4連覇を続けている実力派の大学である。QS社のランキングでも世界8位にランクインしている。 少人数制の単科大学ならではの研究能力が評価された形だ。

なお、200位以内に名を連ねた日本の大学は以下の通り。

23. 東京大学
59. 京都大学
141. 東京工業大学
157. 大阪大学
165. 東北大学
 
東大は昨年と同順位だが、アジアでは首位、非英語圏を総合してもスイス・チューリヒ工科大学(13位) に次ぐ順位へランクインした。クォーター制への移行をはじめとする一連の国際化の動きが一まずは功を奏した結果といえるだろう。

現代フランスを代表する知識人であるピエール・ロザンヴァロン(Pierre Rosanvallon)の名前は、わが国では専門家を除いてほとんど知られていない。しかしながら、豊富な歴史知識に裏打ちされた彼の政治哲学は、現代社会に多くの示唆を与えてくれる。民主主義や福祉国家について積極的に発言を行っているピエール・ロザンヴァロンとは一体どのような人物なのだろうか?

ロザンヴァロンは1948年、サントル地域圏のブロワに生まれた。名門グランゼコールであるHEC経営大学院を1969年に卒業するなど、順調にキャリアを開始する。

この間、ロザンヴァロンは政治活動へ没頭した。労働組合のCFDTや統一社会党へ参加し、76年には左翼運動に思想的基礎を与える著作『自主管理の時代』(L'Âge de l'autogestion)を発表、一時は政治家となる道も噂された。

ところが、ロザンヴァロンは研究に復帰する。1979年、クロード・ルフォール(Claude Lefort)の指導下で、近世~近代の経済思想をテーマとした第3課程博士論文『ユートピア的資本主義』(Le Capitalisme utopique)を執筆し、続いて1985年には19世紀前半の自由主義を扱った国家博士論文『ギゾーのモーメント』(Le Moment Guizot)を完成させる。これによりロザンヴァロンは歴史研究者としての地位を確固たるものとした。
 
とはいえ、ロザンヴァロンは社会参加への志向を捨てたのではなかった。1982年にはフランス革命修正派の歴史学者として知られるフランソワ・フュレと共同で「サン=シモン財団」を設立。学界と財界を接続するシンクタンクとして、フュレの死後、1999年まで活動を続けた。なおサン=シモン財団からは、『21世紀の資本論』で脚光を浴びている経済学者トマ・ピケティなども輩出した。

ロザンヴァロンが主として研究に従事した機関は社会科学高等研究院(EHESS)である。フュレも院長を務めたこの機関で、彼は主任教授として研究・教育に携わった。2001年にはフランスの最も権威ある学術機関の一つ、コレージュ・ド・フランスの近代政治史講座担当の教授に任命される。現在はコレージュで政治哲学をテーマとする講義を行いつつ、主として研究活動に従事している。

国家博士論文脱稿後のロザンヴァロンの仕事は、主としてフランス革命後の近代民主主義を主題とした政治哲学の領域で展開されている。1990年の『フランス国制史:1789年~現代』(L'État en France de 1789 à nos jours)を皮切りに、2004年の『フランス型政治モデル』(Le Modèle politique français)に至るまで、フランス革命によって打ち出された一般意思に基づく政治原理の持続性を強調した。

他方でロザンヴァロンは、社会福祉についても積極的に発言を行っている。1981年に発表された『福祉国家の危機』(La Crise de l'État-providence)、あるいは近年の『連帯の新たなる哲学』(La nouvelle question sociale)がそれだ。

このようにロザンヴァロンの研究テーマは多岐にわたるため、わが国では幅広い領域の研究者によって受容されている。例えば、歴史学では19世紀史を専門とする喜安朗小田中直樹が著書でロザンヴァロンに言及している。法学では高村学人がロザンヴァロンに依拠して法制史の論文を書いている。

さらに、社会思想史では北垣徹や田中拓道がEHESSに留学し、ロザンヴァロンの指導を受けている。ロザンヴァロンを含むEHESSの政治哲学派については宇野重規『政治哲学へ』が参考になる。研究の全体像把握が困難なロザンヴァロンだが、フランス現代社会科学を理解するうえで避けては通れない研究者だと言えるだろう。

戦前よりパリで活躍した日本人画家・藤田嗣治の生涯を描いた日仏合作映画「FOUJITA」が、オダギリジョー主演で2015年秋に公開されることが分かった。

映画は小栗康平監督がメガホンを取り、あの『アメリ』を手掛けたプロデューサーであるクロディ・オサール(Claudie Ossard)が担当する。

主演のオダギリジョーは、本格的な欧州進出は今回が初。撮影に向けて6月からフランス語の特訓を行っているという。



本作の主人公である藤田嗣治(ふじた つぐはる) は1886年、東京市牛込区に生まれた。1905年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学した後、1913年に渡仏。パリはセーヌ左岸のモンパルナスに居を構えた。

当時のモンパルナスにはピカソ、モディリアーニ、ザッキンやアンリ・ルソーなど、当代一流の画家・芸術家が集まっていた。その活気あふれる様子は映画『ミッドナイト・イン・パリ』からうかがい知ることができる。 

藤田はパリでフランス語風の綴り「Foujita」と名乗った。「Fujita」だと「フュジタ」の発音になってしまうからである。藤田は「FouFou」(「お馬鹿さん」の意)という愛称でパリの仲間に親しまれた。

藤田は「エコール・ド・パリ」の面々と交流を続けながら独自の画風を追求し、 乳白色の肌を特徴とするスタイルは世界中から絶賛された。

戦火の中で30年年代に帰国するも、再び渡仏、59年にはフランス国籍を取得し、 「レオナール・フジタ」と名乗った。1968年、スイス・チューリヒにて没。 

若くして海外に渡った藤田、19歳で米国に留学したオダギリも親近感をもったという。実力派俳優は丸メガネにおかっぱ頭の藤田をどう演じるのか。映画「FOUJITA」は2015年秋公開の予定である。

 

一橋大学で出題される世界史の入試問題は、東大をも凌ぐほどの難易度として関係者の間で有名である。そんな一橋大で2013年、こんな問題が出題された。
第2問

 次の文章を読んで、下線部に関する問いに答えなさい。

 フランスの歴史家アルベール・マチエはその著書『フランス大革命』の第一巻を「君主制の瓦解(1787年-1792年)」とし、その第二章を「貴族の反乱」とした。王室財政の破産がこのままでは不可避とみた国王政府は、貴族への課税を中心とする改革案を作り、主として大貴族からなる「名士会」を1787年に召集して改革案の承認を求めたが、「名士会」は、貴族が課税されることよりも、むしろこのように臨時にしか貴族が国政に発言できない政治体制そのものを批判し、全国三部会の開催を要求した。マチエはこの「名士会」の召集から『フランス大革命』の論述を始めたのである。従来は1789年に始まると考えられていたフランス革命の叙述を1787年から始めたのはマチエの卓見であったが、1787年-88年の段階は「革命」ではなく「反乱」とされた。それに対してジョルジュ・ルフェーヴルは「フランス革命と農民」と題する論文において、マチエの「1787年開始説」を引き継ぎながら、「…したがって、フランス革命の開始期ではまだブルジョワ革命ではなくて貴族革命である。貴族革命は結局流産したが、それを無視してはブルジョワ革命を説明できないであろう。(中略)フランス革命の火蓋はそのために滅んでゆく階級によってきられたのであって、そのために利益をえる階級によってではなかった」と記し、マチエが「貴族の反乱」と呼んだものを「貴族革命」と言い換えた。他方、この論文の訳者である柴田三千雄氏はその著書『フランス革命』において「まず、フランス革命はいつからいつまでかといえば、1789年から99年までの約10年間とみるのが、通説です。貴族の反抗をいれると12年になりますが、それはいわば前段階です。」として「反乱(もしくは反抗)」についてはマチエ説に立ち返るとともに、フランス革命の叙述を1789年から始めている。

 1787-88年の貴族の動きが「反乱(もしくは反抗)である「革命」であるかは、一見すると些細な用語の違いにすぎないと思われるかもしれないが、この用語の違いは、「そもそも革命とは何か」という大きな問題に直結しており、フランス革命という世界史上の大事件の定義もしくは性格付けに直接にかかわる問題なのである。(ジョルジュ・ルフェーヴル著・柴田三千雄訳『フランス革命と農民』柴田三千雄著『フランス革命』より引用。) 

問い 「革命」をどのようなものと考えるとこの貴族の動きは「反乱(もしくは反抗)」とみなされ、また「革命」を逆にどのようなものと考えると同じものが革命とみなされることになるか答えなさい。絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化、フランス革命の際のスローガン等を参考に考察しなさい。
いかがだろうか。高校で学修する範囲を明らかに超えている。平均点もかなり低かったのではないだろうか。とはいえ、確かに問題文を見たときは一瞬面食らうが、素直に考えれば高校生の知識でも解けない問題ではない。大学教員が受験生にどのような能力を求めているのかを正直に示したという点で、良問と言えるのではないだろうか。

ちなみにこの問題には元ネタがある。一橋大学の山崎耕一教授による、柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか』の書評(『社会経済史学』79-2、2013年所収)である。山崎教授は「この短い書評において、「革命とは何か」というラジカルな問題を取り上げたいのである」という。冒頭の入試問題とまったく同じ問いである。

書評によると、柴田三千雄は「革命とは「国家権力を暴力的に奪取することを目的とする政治・社会運動」と定義し、 この定義に従えば「アリストクラートは現存体制を転覆する意図がないから(革命には)あてはまらない」(強調引用者)と述べた。「アリストクラート」とは問題文のいう「貴族」のこと。柴田三千雄は「貴族の反抗」を「革命」とみなさなかったのである。

ところが書評では、「柴田氏の定義でいくと『革命』と『クーデタ』はどのように区別されるのか」と問われる。その上で山崎教授は、革命を「為政者が無視できないほどの強い世論が成立しており、かつその世論が何らかの意味での自由を求めている状況において、統治の目標と理念そのものが入れ替わるような政治の変革が行われること」と定義する。この定義に従えば、1787年~88年の貴族による名士会も「革命」とみることができるのである。

さらにより十全な革命であるためには、「身分や階層などの社会構成、社会秩序や生活様式が不可逆的に変わるような社会の変革を伴うこと」が必要だと付け加える。この定義なら穏健なイギリスの名誉革命も、過激なフランス革命も、さらには「アラブの春」をも同じ土俵で論じることができる。また、「「自由を求める方向に統治の目標と理念を変化させる」という点において単なるクーデタと革命を区別できる」とされたのである。

以上を400字でまとめたものが解答になる。もちろん受験生はフランス革命をめぐる学界の議論など知らないから、推測で答えるほかない。だが教育関係者はこの書評の存在を知っておいて損はないし、意欲的な受験生も読み物として興味深く読むことができるだろう。

待ちに待ったiPhone6の発売がついに開始された。多くの店舗には行列ができ、すでに在庫切れとなった店舗も多数という情報がある。そうした中、一部地域では今も在庫を抱えている店舗もある。Twitterで情報が飛び交っているので、以下に紹介しよう。





これらの情報から判断すると、一部にはまだ在庫が豊富な店舗もあるようだ。ただし16GBのモデルはおおむね在庫切れで、通信会社別ではau、ソフトバンクの売れ行きが良い傾向にある。

一方、128GBのモデルやシルバーのモデルは在庫がある傾向にあり、どうしてもなるべく早く購入したいという読者にはこれらの機種が狙い目だと言えるだろう。

 

19世紀フランスの社会思想について学ぶなら「サン=シモン主義」を避けて通るわけにはいかない。社会主義、科学主義、実証主義、経済学など、世紀後半に花開く多くの思想をサン=シモン主義が胚胎したからである。

サン=シモン(本名クロード=アンリ・ド・ルヴロワ)が1825年に死ぬと、弟子たちはサン=シモンの思想の体系化および布教につとめた。サン=シモンの死の直前、最後の秘書となったユダヤ人銀行家のオランド・ロドリグが活動の中核を担った。

そうした中、頭角を現すのがバルテルミ=プロスペル・アンファンタンである。アンファンタンは1796年2月、パリの裕福な銀行家の子として生を受けた。理系の名門校であるエコール・ポリテクニクに進学したが、在学中に父を失い、授業料の納入困難から退学、ヨーロッパ各地を転々とし、実業家への道を歩み始める。

アンファンタンがサン=シモンの著作に触れたのはこのときである。アンファンタンはサン=シモンの弟子たちが結成した教団に入り、「至高の父」としてサンタマン・バザールとともに二頭体制で教団を指導する。

ところがサン=シモンの教義の解釈をめぐり両者は対立する。女性解放をとなえるアンファンタンによる自由恋愛の主張を、バザールは受け入れられなかった。バザールは私生児だった。結局バザールは教団を脱退し、アンファンタンは唯一の「至高の父」となる。アンファンタンの指導の下で教団は独特な制服を採用し、パリ郊外のメニルモンタンで隠遁生活を送った。

警察は彼らの不審な行動を見逃さなかった。アンファンタンは風紀紊乱の罪で起訴され、サント・ペラジ獄に収監された。

数カ月の後に出獄を許されると、アンファンタンは東方へ向けて出港する。「至高の父」であった彼は、東西両洋の融和のためにオリエントへ「母」を探しに行ったのである。

結局この活動は失敗に終わる。帰国したアンファンタンは鉄道事業に身を捧げた。パリからリヨンを経由して地中海へ通じ、現在ではTGVも走るPLM線は、アンファンタンの経営により七月王政下で実現したものである。

アンファンタンは1864年に没した。彼の名は実業家や技術者としてより、宗教者や狂信家として後世に記憶されることになった。確かにアンファンタンの思想にカルト的な要素を見出すことはできる。しかしながら、そうした宗教熱が鉄道をはじめとする19世紀フランスの土木事業や、オリエント地域における植民地建設を支えたこともまた事実なのである。

なお、アンファンタンの墓はパリ郊外のペール・ラシェーズ墓地に所在する。すぐ近くにサン=シモンの墓もあるので、興味のある読者は観光コースに組み入れてみてはいかがだろうか?

 

やらなければいけない課題があるのにtwitterで遊んでしまう…そんな経験は誰にでもあるはずだ。そんな声を反映してか、twitterには原稿催促・作業催促を目的としたbotが複数存在する。今回はそんなbotの中から特につぶやきが秀逸なものを5点選んで紹介する。〆切を抱えた読者の役に立てば幸いである。

「原稿しろ」bot

「卒論しろ」bot



「作業しろ」bot


「〆切厳守」bot


シャーロック原稿しろbot


核兵器は第二次大戦末期に開発され、冷戦中を通して世界中を恐怖に陥れた。その様子は『映像の世紀』第8集「恐怖の中の平和」に詳しい。

そんな冷戦中の核実験を視覚化したタイムラプス動画が2003年に公開され、大きな話題を集めた。日本人アーティストの橋本公氏によるものだ。



いかがだっただろうか。15分近くの動画にもかかわらず人を引き付ける力があり、思わず最後まで見てしまったという読者も多いはずだ。

動画では、史上初の原子爆弾である米国アラモゴードにおける核実験から、日本に落とされた2発の原爆、そして冷戦中に各国がしのぎを削った大量の核実験が、連続する無機質な点滅と機械音によって表現されている。

動画の作者である橋本公氏は1959年、熊本県生れ。明治大学商学部を卒業後、銀行員として17年間勤務。2001年に武蔵野美術大学に入学し、卒業設計としてこの作品を手がけた。 2001年に米国で発生した同時多発テロ、そして内戦終了後間もないカンボジアへ旅行した経験が、橋本氏にこの作品の着想を与えたという。

動画は公開後、大きな反響を呼んだ。言葉を使わずに表現されたこの作品は、世界中の人びとの心に訴えかけたのである。国や時代を超えた普遍的な価値をもつこの動画、ぜひ多くの人に知っていただきたい作品である。

 

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