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本日2018年9月4日はオスカー・シュレンマーの生誕130周年。これを記念してGoogleトップページも特別ロゴに変更されている。

オスカー・シュレンマーは1888年9月4日、ドイツのシュトゥットガルトにて6人兄弟の末っ子として生まれた。父のカール・レオンハルト・シュレンマーと母のミナ・ノイハウスはいずれも1900年ごろ亡くなり、少年オスカー・シュレンマーは1903年より完全な自活を余儀なくされた。そこで彼は象眼の工房で見習いとして働き始め、1905~1909年にかけて別の寄せ木細工の工房で徒弟修業を繰り返した。

その後クリスティアン・ランデンベルガーやフリードリヒ・フォン・ケラーの下で風景画を学んだオスカー・シュレンマーは1910年ベルリンに移住し、1912年に再度故郷のシュトゥットガルトに戻り、アドルフ・ヘルツェルの生徒となった。

1914年、第一次世界大戦の勃発により、オスカー・シュレンマーは西部戦線にて従軍、その後独仏国境地帯のコルマールで負傷し、陸軍の地図作成業務に携わった。

1919年、彫刻へとジャンルを変えたオスカー・シュレンマーはベルリンの「デル・シュトルム」の画廊で展覧会を催す。1920年に結婚し、ヴァルター・グロピウスより招かれバウハウスの彫刻科で教鞭をとる。

オスカー・シュレンマーのアイデアは同時代の芸術シーンに影響を与え、当時バウハウスで最も重要な講師の一人となった。しかしながら、1920年代末のドイツにおける政治の潮流は、グロピウスの後継者であり過激な共産主義者だったハンネス・マイヤーを支持するオスカー・シュレンマーは、活躍の場をポーランド・ヴロツワフへと移すことを余儀なくされる。

1928年から1930年にかけて、オスカー・シュレンマーはドイツ・エッセンのフォルクヴァンク美術館の壁画制作に取り組んだ。1929年にバウハウスを離れたのち、オスカー・シュレンマーは彼のもっとも有名な作品「バウハウスの階段」(1932年、MoMA)を完成させる。経済的な問題からヴロツワフを離れたのち、オスカー・シュレンマーはベルリンへ移住する。しかしながらナチスの台頭により1933年、独仏国境地帯に移住を余儀なくされる。


Bauhaustreppe,_by_Oskar_Schlemmer


第二次世界大戦中、オスカー・シュレンマーはヴッパータールで迫害の怖れなく制作活動に没頭した。1943年4月13日、オスカー・シュレンマーは54歳でバーデン=バーデンの病院にて亡くなった。

今日のGoodleロゴはオスカー・シュレンマーが制作し、1922年9月30日シュトゥットガルトで初演された「トリアディック・バレエ」に基づくものだ。「トリアディック」とは数字の3を意味し、球・立方体・円錐といった形状、赤・青・黄といった色彩などの3つの組が用いられた作品だ。機械的な操り人形をモチーフとする作品は、近代社会・近代文明に対する批評的なまなざしが込められているとされる。