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今日はセルゲイ・ディアギレフの誕生日。これを記念してgoogleトップページも一日限定で特別ロゴに変更されている。

このロゴ変更はGoogleの記念日ロゴ「Doodle」(ドゥードゥル)によるものだ。Doodleの公式webサイトによれば、今日の特別ロゴは日本の他にも韓国やカナダ、セルゲイ・ディアギレフの母国ロシアなどでも見られるようだ。そんなセルゲイ・ディアギレフ、一体どのような人物なのだろうか。

セルゲイ・ディアギレフは1872年3月31日、当時ロシア帝国領だったペルミで裕福な貴族の家柄に生まれた。幼少時代を当時の首都ペテルブルクで過ごした後、10歳でペルミに帰郷、18歳になった1890年にはペテルブルグ大学法学部に入学した。

芸術パトロンとして

学歴エリートとしてのキャリアが約束されたセルゲイ・ディアギレフだったが、彼はここで芸術家として生きる道を選ぶ。作曲家リムスキー=コルサコフに一時期弟子入りしたが、音楽の道は諦めて絵画に熱中、莫大な財産を投じて西欧旅行の傍ら絵画を買いあさり、6度にわたって自前の展覧会を催した。招待客の中には皇帝一族の名前もあった。1900年のパリ万国博覧会に感銘を受けたセルゲイ・ディアギレフは、芸術家仲間とともに雑誌『芸術世界』(ミール・イスクーストヴァ)を創刊し、フランスなどで流行していた最先端の芸術潮流をロシアに紹介した。
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セルゲイ・ディアギレフの生涯の転機となったのは、1906年にパリのプティ・パレ(小宮殿)で開催したロシア芸術家の展覧会である。万博のために設計され、当時完成したばかりだったパリの誇る会場で催された展覧会は成功を収め、これによりセルゲイ・ディアギレフはパリの上流社交界との人的つながりを得ることができた。

続いてディアギレフはパリでロシア音楽の紹介活動を行う。かつての師匠リムスキー=コルサコフやチャイコフスキー、ラフマニノフやムソルグスキーといったロシアを代表する作曲家による演奏会をパリのオペラ座(ガルニエ宮)で実施し、成功を収めた。
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バレエ・リュスの創設

1909年5月19日、セルゲイ・ディアギレフはパリ中心部の劇場シャトレ座で「セゾン・リュス」(ロシアのシーズン)を催し、ストラヴィンスキーの「火の鳥」やリムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」などといった上演を行った。バレエ団はロシア・オリエンタル風の刺激的かつエキゾチックな衣装や演出により、パリをはじめとした西欧の芸術シーンで話題を呼ぶ。この成功を見てディアギレフは「バレエ・リュス」、いわゆるロシア・バレエ団をパリで旗揚げし、以後数々の伝説を残すこととなる。
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1913年のストラヴィンスキー「春の祭典」初演(ニジンスキー演出)において、当時若干26歳だった作曲家と20歳の演出家によるあまりに前衛的な演出のために観客の暴動が起こった話は有名だが、このスキャンダルもセルゲイ・ディアギレフによるバレエ・リュスの催しで生まれた出来事である。バレエ・リュスはパリのみならずヨーロッパ各地で客演を行った。

セルゲイ・ディアギレフもシーズンに合わせて各地を転々として多忙な生活を送ったが、1929年のシーズンオフ後、持病だった糖尿病によりヴェネツィアで客死。水の都に埋葬された。バレエ・リュスも団長の死により解散となった。
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1909年の初演から29年の解散というバレエ・リュスの時代は、パリがヨーロッパ中の芸術家を集めた「狂乱の時代」(Les années folles)と重なる。ピカソやミロ、ブラックなど、当時パリ・モンパルナスのカフェに集った若き画家の多くがバレエ・リュスの装飾に協力した。文人ジャン・コクトーは台本作成に携わった。この狂乱の時代は1929年の世界恐慌とともに終りを迎えるが、その名残は現在に至るまでノスタルジーとともに語り継がれている。セルゲイ・ディアギレフはロシアから来た異邦人でありながら、芸術の都パリがコスモポリタンな国際都市として最も輝いていた時代の中心にいた人物だったのである。
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