戦後日本を代表する知識人・鶴見俊輔が亡くなった。93歳だった。

鶴見俊輔とは?

鶴見俊輔は戦後日本を代表する哲学者。米国ハーバード大学で学んだプラグマティズムを日本で紹介したほか、「共同研究 転向」「思想の科学」「ベ平連」などの活動を通じて市民運動をリードした人物として知られる。

鶴見俊輔は1922年、東京で生まれた。 十代の頃は万引きなど非行を繰り返す青年だったという。自殺未遂や精神病院の経験もある。そんな俊輔を見かねた父親の計らいにより単身渡米。1938年だった。

米国ハーバード大学での経験は俊輔に哲学への道を開く。ホワイトヘッドやラッセル、クワインなど当代一流の哲学者に学んだ鶴見俊輔は、次第にプラグマティズムへ傾倒してゆく。

ところが1942年、大学3年生だった鶴見俊輔は無政府主義者の廉でFBIに逮捕される。時は第二次世界大戦中。鶴見俊輔は日米交換戦により帰国を余儀なくされた。

帰国した鶴見俊輔は英語能力を買われ、敵国の英語放送の翻訳業務に従事。海軍軍属としてインドネシア・ジャワ島へ赴任した。

軍属としての経験は鶴見俊輔の生涯に 決定的な影響を与える。胸部カリエスの悪化により帰国後、半年後に敗戦。その後、丸山眞男や都留重人らと組んで「思想の科学研究会」を結成。同研究会の発表した「共同研究 転向」は戦後間もないわが国において爆発的な売上を記録した。



鶴見俊輔は以後、市民運動・平和運動にコミットする哲学者として知られるようになる。60年代は安保闘争に参加。65年には『何でも見てやろう』で知られる小田実と共同で「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)を結成。米国人の脱走兵の支援などを行ったベ平連は、開かれたリベラルな組織として多くの市民による支持を得た。

鶴見俊輔は日本国憲法の改正に反対する「九条の会」にも連名。晩年まで市民運動に身を捧げた知識人だった。

鶴見俊輔の思想

鶴見俊輔は本場アメリカで学んだプラグマティズム哲学に裏打ちされたリベラル知識人として知られる。歴史社会学者の小熊英二は著書『民主と愛国』において、鶴見俊輔を政治学者の丸山眞男や経済学者の大塚久雄に始まる戦後民主主義の知識人の系譜に位置づけて論じた。歴史学者・近藤和彦は、1996年の大塚の死に際して認めた文章を「知のパラダイム転換がダメ押しされたような気がする」として結んでいる。丸山・大塚の死から19年が経過した。



鶴見俊輔は自身の戦争体験をもとに、戦後一貫して平和を訴えてきた。与党の標榜する「戦後レジームからの脱却」がいよいよ現実味を帯びてきた今、戦後民主主義を代表するリベラリストは一体何を思うのだろうか。